アフガニスタン略史;中世から近代

中世のアフガニスタン

イスラム帝国の影響

651年 ササン朝が滅亡

ササン朝が滅亡した後、アフガニスタンはアラブの支配下に入りました。この時期にイスラム化が進行し、地域の文化や社会構造にも大きな影響を与えました。9世紀になると、サッファール朝とサーマン朝のもとでイランの政治的復興が進行しました。

 

これにより、アフガニスタンはイスラム文化の影響を受けつつも独自の発展を遂げました。この時代の略史を通じて、アフガニスタンの年代表記を見ても、地域が多様な文化と勢力に影響を受けてきたことがわかります。

1220年 モンゴル帝国のチンギス・ハーンが侵攻

モンゴル帝国のチンギス・ハーン
チンギス・ハーン

 13世紀にはチンギス・ハン率いるモンゴル帝国の侵攻を受けました。モンゴルの進攻はアフガニスタン全土にわたり、その破壊力は計り知れないものでした。しかし、その後、アフガニスタン系のカルト朝のもとに実質的に独立した政権を維持することに成功しました。

 

モンゴルの影響下でも、アフガニスタンは独自の文化と政治的アイデンティティを守り続けました。この時代もまた、アフガニスタンの年代表記において重要な位置を占めています。

14世紀後半 ティムール帝国の支配下

 14世紀後半に登場したティムール帝国は、アフガニスタンの歴史に新たな章を加えました。ティムール帝国の支配下で、地域は再び統一され、文化的にも経済的にも繁栄しました。

 

ティムールの後継者たちは、建造物や芸術に力を注ぎ、特にヘラートは文化と学問の中心地となりました。この時代の略史や年代表記を見ると、アフガニスタンがこの時期にどれほどの影響を受け、多くの文化的遺産を築いてきたかが理解できます。

1507 ティムール朝の支配終焉

ムガール帝国の初代皇帝バーブル
ムガール帝国の皇帝バーブル

ウズベク族のシャイバーニー朝は中央アジアに勢力を伸ばし、1507年のティムール軍との戦争に勝利してヘラートを占領し、ティムール朝の支配は終わりました。ウズベク族によりフェルガナを追放されたティムール家の子孫のバーブルは以前からアフガニスタン中部を領有しカーブルを首都とする国家を建国していました。

 

バーブルはカブールの南北を支配下に置き、1527年、アグラを首都としてムガール帝国建国しました。その後、アフガニスタンは領有権の争いはあったもののムガール帝国とサファヴィー朝の分割統治を200年間に渡り受けました。

近世アフガニスタンの国家形成

アフガン国家の成立と国土の確定

1722年 サファヴィー朝の滅亡とホータキ―朝の興亡

18世紀になると、サファヴィー朝に対する反乱が相次ぎアフガニスタンに於いてもバローチスタンのバローチ人などが反乱を起こしました。特にアフガニスタンのパシュトゥーン人のギルザイ部族が起こした反乱は、カンダハールにホータキー朝を自立させるまでになりました。ホータキー朝はその後勢力をさらに増し、1719年にはペルシア本土への進軍を開始しケルマーンを攻略しました。

 

1722年、ホータキー朝軍がサファヴィー朝の首都イスファハーンに迫るに至ってサファヴィー朝はようやく討伐軍を派遣しましたが、グルナーバードの戦いにおいてサファヴィー朝軍は数において勝るにもかかわらず惨敗し壊滅した。

 

ホータキー朝軍はイスファハーンを包囲し、サファヴィー朝のフサインは退位、ホータキー朝軍に降伏しました。イスファハーンを失ったサファヴィー朝はこれにより事実上滅亡しました。

 

アフガン人によるアフガン国家を成立させたホータキー朝でしたが、1729年復活したサファヴィー朝の後継ペルシャ王朝のアフシャール朝のナーディル・クリー・ベグによって滅ぼされ極めて短命の王朝となりまた。

 

1747年 アフガン国家ドゥッラーニ王朝成立

アフガニスタンのドゥッラーニ朝初代皇帝アフマド・シャー・ドゥッラーニ
ドゥッラーニ朝のアフマド・シャー・ドゥッラーニ

 ドゥッラーニ王朝は、1747年にサファヴィー朝の後継王朝のアフシャール朝のナーディル・シャー(=ナーディル・クリー・ベグ)が暗殺された後に成立しました。ドゥッラーニ部族連合のアフマッド・シャー・ドゥッラーニがアフガニスタン全土を平定し、王位につくことで政治的独立を達成しました。彼の治世は、アフガニスタンの歴史において重要な転機となり、近世国家の形成を促しました。

 

 アフマッド・シャー・ドゥッラーニは、現在のアフガニスタンの領域だけでなく、現代のパキスタン、インド、イランにも影響を及ぼす広大な帝国を築きました。彼の治世の間、アフガニスタンは経済的にも文化的にも繁栄し、地域の重要な中心地となりました。

 

 ドゥッラーニ王朝は、その後も続きましたが、内部の争いや外部からの圧力により、19世紀に入ると勢力を失います。特にイギリスとロシアの勢力争いの中で、アフガニスタンは度重なる侵略や戦争に直面しました。これらの歴史的背景が、第一次・第二次アフガン戦争や英国保護領時代へと続く道筋を形成しました。

 

 ドゥッラーニ王朝の成立は、アフガニスタン史の中でも重要な位置を占めています。その時代背景を理解することは、アフガニスタンの現代史とも深く結びついているため、重要です。

 

ドゥッラーニ王朝は一般に後継王朝のサドーザイ朝を含めてドゥッラーニ王朝と言われていましが、ドゥッラーニ部族連合の王朝としては、さらに後継王朝のバーラクザイ朝(1826年 – 1973年)までを含めることがあります。

19世紀とイギリスの影響

イギリスとの戦争ー第1次~第3次アングロ・アフガン戦争

1839年~1842年 第一次アフガン戦争(第1次アングロ・アフガン戦争)

19世紀はアフガニスタンにとって重要な転換期でした。イギリス帝国とロシア帝国の「グレートゲーム」と呼ばれる中央アジアの覇権争いに巻き込まれたアフガニスタンは、その運命を大きく変える出来事を経験しました。

 

1839年から1842年にかけて行われた第1次アフガン戦争では、イギリスがアフガニスタンを支配しようと試みましたが、現地住民の激しい抵抗に遭い、最終的には失敗しました。この戦争は多くの犠牲者を出し、その記憶はアフガニスタン史において重要な位置を占めています。

1878年~1880年 第二次アフガン戦争(第2次アングロ・アフガン戦争)

その後、1878年から1880年にかけて第2次アフガン戦争が勃発しました。イギリスは再びアフガニスタンを支配下に置こうとしました。この戦争の結果、アフガニスタンはイギリスの影響を受けながらも、内部の自治を維持することができました。これにより、外部からの干渉を受けつつもアフガニスタンは独自の道を歩むことができました。

  英国保護領時代

 第2次アフガン戦争後、アフガニスタンは形の上では独立を保ちながらも、実質的にはイギリスの保護領としての時代が始まりました。この時期にはイギリスがアフガニスタンの外交政策を管理し、内政に一定の影響を与えることとなりました。

 

 アフガニスタンの君主たちはイギリスの支配を拒絶し、独立を目指す動きを続けましたが、その影響力が強かったため完全な独立を果たすことは困難でした。しかし、一方でイギリスとの複雑な関係を通じて、アフガニスタンは徐々に近代化を進めることが出来ました。英国保護領時代はアフガニスタンの歴史において新しい時代への布石を築いたと言えます。

1919年 第三次アフガン戦争(第3次アングロ・アフガン戦争)

第三次アフガン戦争は、アフガニスタンのアミール(統治者)であるアマーヌッラーが、第1次世界大戦で疲弊したイギリスに勝機を求め完全な独立を得ようとパシュトゥーン部族を中心として決起し越境攻撃を行ったものです。

 

しかし、インド国内(現パキスタン領内)のパシュトゥーン人の反応は鈍く士気は上がらず一進一退の膠着状態が続きました。その後、アフガニスタン側から停戦の申し入れを行い、短い期間で終戦に至りました。第三次アフガン戦争後、アフガニスタンはラワールピンディー条約によってイギリスからの独立を達成しました。

 

第三次アフガン戦争は、アフガニスタンがイギリスからの独立を達成するきっかけとなりました。しかし、その後のアフガニスタンは激変する世界と地域動向の影響を強く受け、特にロシア革命を経て成立したソビエト連邦からの共産主義の流入と交流の出先機関としての役割を果たすなど、多大な影響を受けました。