古代史❺;アケメネス朝ペルシャとバクトリアの興亡

アケメネス朝ペルシャの拡大戦略

アケメネス朝の起源と成長

アケメネス朝ペルシャの建国者キュロス2世
アケメネス朝ペルシャの建国者キュロス2世

 アケメネス朝ペルシャは紀元前550年、キュロス2世によって興立されました。キュロス2世はメディア王国を倒し、ペルシア人の独立王国を築きました。彼の名声は、その優れた指導力と戦略的な才能によって高まり、彼は強力な帝国を築くことになりました。

アケメネス家のキュロス2世とその業績

 キュロス2世は紀元前559年にアハシュエロス2世として生まれ、エクバタナの地で生涯を終えるまで、アケメネス朝の創設と拡大に尽力しました。彼の名前は、大胆で勇敢な将軍としての評判によって広まりました。

 キュロス2世はメディア王国の王アスティアゲスと対立し、紀元前550年に起こったパサルガダエの戦いでメディア王国を破りました。これにより、アケメネス朝の興立が宣言されました。

アケメネス朝ペルシャのアフガニスタン支配

アケメネス朝のアフガニスタン進出 

 アフガニスタンの古代において、アケメネス朝ペルシャとの関係は非常に複雑でした。アケメネス朝は古代ペルシャ帝国の一翼を担い、中央アジアへの勢力拡大を図っていました。その中でアフガニスタンへの進出も行われました。

  アケメネス朝はアフガニスタンへの進出によって、この地域の経済的・政治的な影響力を強めました。アフガニスタンは中央アジアの交易路上に位置し、その戦略的な重要性からアケメネス朝の目にも留まりました。アフガニスタンはまた、バクトリア地方とも接しており、この地域におけるアケメネス朝の拠点となりました。

アケメネス朝ペルシャの西方進出

リディア、新バビロニアの滅亡

 キュロス2世は領土の拡大を図り、リディア王国と新バビロニアを滅ぼしました。リディア王国はアナトリア半島西部に位置し、豊富な資源を有していました。新バビロニアはメソポタミア地域に拠点を置いており、その中心はバビロンでした。これらの征服により、アケメネス朝はさらなる地域の支配を進めることができました。

カンビュセス2世とオリエント統一

 キュロス2世の後継者であるカンビュセス2世は、オリエント地域の統一を目指しました。彼はエジプトを征服し、オリエント全域の支配を実現しました。カンビュセス2世の時代には、アケメネス朝は領土をインダス川からエーゲ海まで広げることに成功しました。

ペルシャ帝国の拡大戦略

アケメネス朝ペルシャの勢力図
アケメネス朝の勢力図

 アケメネス朝は、力強い拡大戦略によってその領土を大きく広げました。特に、ギリシアへの遠征とマラトンの戦い、サラミスの海戦、そしてアレクサンドロスの侵入とアケメネス朝の終焉は、その戦略の中でも重要な出来事でした。

アケメネス朝ペルシャの衰退と滅亡

 アケメネス朝ペルシャはその全盛期を極めた後、次第に衰退の兆候を見せるようになりました。この衰退と滅亡にはいくつかの要因が絡んでいます。

アフガニスタン及び北インドの失落

 アケメネス朝は広大な領土を支配していましたが、その中にはアフガニスタンや北インドの地域も含まれていました。しかし、数世紀にわたる戦争と侵略によって、アフガニスタンの支配は次第に弱まっていきました。

 同様に、北インドでもアケメネス朝の影響力は低下し、この地域も他の勢力の支配下に入っていくこととなりました。

ギリシアへの遠征とマラトンの戦い

 アケメネス朝の王ダレイオス1世は、ギリシアへの遠征を計画しました。紀元前490年、ダレイオス1世はギリシアの都市国家アテナイに対して遠征軍を派遣しましたが、マラトンの戦いでアテナイ軍に敗北しました。この戦いは、ギリシア軍がアケメネス朝の大軍に勝利した初の戦いとして知られています。

サラミスの海戦とその影響

 紀元前480年、アケメネス朝は再びギリシアへの遠征を試みました。しかし、この時はペルシャの艦隊がギリシアの連合艦隊によってサラミスの海戦で壊滅させられました。サラミスの海戦の敗北は、アケメネス朝の海上優位性を大きく損ないました。この勝利によってギリシア諸都市は自由を守り、アケメネス朝の拡大を食い止めることができました。

アレクサンドロスの侵入とアケメネス朝の終焉

 紀元前334年、アケメネス朝はアレクサンダー大王の侵略を受けました。アレクサンダー大王はアジアにおいて驚異的な軍事力と優れた戦略を持っていたため、アケメネス朝は次々と陥落していきました。最終的に、紀元前330年にアケメネス朝の首都パサルガダエが陥落し、アケメネス朝は滅亡しました。

 

 こうして、アケメネス朝はその拡大戦略が破綻し、アレクサンダー大王によって消滅することとなりました。しかし、その間に築かれた広大な領土や文化的な交流は、後の帝国に大きな影響を与えました。