アフガニスタン略史;第三次アフガン戦争後の現代史

目次

第三次アングロ・アフガン戦争後のアフガニスタン

アングロ・アフガニスタン戦争の背景

アフガニスタンとイギリスの関係は、19世紀半ばから20世紀初頭にかけての「グレート・ゲーム」と呼ばれる時代に始まりました。イギリスはインドへ向かうルートの安全確保を目的としてアフガニスタンに影響力を拡大しようとし、他方、他方ロシアも南下政策を取ることで二つの大国の利害の狭間でアフガニスタンが巻き込まれることになりました。

1919年 2月 アマーナッラー・ハーンが国王(アミール)宣言

就任翌日アフガニスタンの独立宣言

1919年 5月 第三次アフガン戦争

アマーヌッラー・ハーン

イギリスは利権確保のため第一次・第二次アフガン戦争を起こし、アフガニスタンはイギリスの保護領となっていましたが、アフガニスタンが完全独立を求め越境してインドに攻め入り第三次アフガン戦争が勃発しました。戦闘は、53日間と短いものでした

戦争の結果とその影響

1919年 8月 ラワールピンディ条約締結によりアフガニスタン完全独立 

戦後処理として締結されたラワールピンディ条約条約によって、アフガニスタンはイギリスの影響下から脱し、独立を達成しました。この独立によって、アフガニスタンは外部勢力からの干渉を排除し、独自の外交路線を模索することが可能となりました。

その後、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国と外交関係を樹立

第二次世界大戦とアフガニスタンの中立政策

第二次世界大戦前のアフガニスタンの状況

1919年~1929年 

アマーヌッラー・ハーンの治世アフガニスタンの改革・世俗主義の国王アマーヌッラー・ハーン

第二次世界大戦前のアフガニスタンは、国内政治の安定と国家の近代化に向けて努力していました。1919年から1929年にかけて、アフガニスタンはアマーヌッラー・ハーンの統治下で様々な急進的な世俗主義を取り入れた改革を推進しようと試みました。しかし、これらの改革は保守派の強い反発を招き、国内の反乱を誘発し再びイギリスの介入を招きました。

1930年代後半 アフガニスタンの中立政策

アフガニスタン、1930年代以降対外政策において中立を堅持する姿勢を取りました。これは周辺国との緊張を避けるため、また国内の安定を図るための重要な方策でした。具体的には、アフガニスタンはイギリスとソビエト連邦との間での微妙なバランスを保ち、中立政策を維持する努力を続けました。

アフガニスタンは、第三次アフガン戦争以後中立政策を取るようになったと言われていますが、第三次アフガン戦争以前の第一次世界大戦でも中立政策を堅持していました。

第二次世界大戦中 中立政策の堅持

アフガニスタンは、第二次世界大戦においても中立政策を堅持したため、国土が戦禍に見舞われることは有りませんでした。

1978年4月 4月革命と中立政策の終焉

パキスタンとの国境問題を発端として、南側の貿易路を遮断されたアフガニスタンはソビエト連邦寄りの人民民主党が勢力を拡大し、4月にクーデターを起こし、社会主義政権が誕生しました。

この時点で、アフガニスタンの中立政策は終わりを迎えた、と言っても良いと思われます。

1979年12月 ソビエト軍が大規模な軍事侵攻

政権の安定化を求める人民民主党とアフガニスタンを足掛かりに中東、南アジアに勢力を拡大したいソビエト連邦の思惑が一致し軍事進攻に至りました。

当初、アフガニスタンの主要都市や戦略的拠点を迅速に制圧したものの、地元のレジスタンス勢力、ムジャヒディーンが組織され、アメリカや他の国々の支援を受けてソビエト軍と戦うことになり長期化しました。

1989年2月 ソビエト軍アフガニスタンから撤退

戦争はソビエト連邦にとっても大きな負担となり、国内外での批判が高まりました。約10年にわたる戦闘の後の1989年2月、ソビエト軍は多大な犠牲と不名誉を携えアフガニスタンから撤退しました。この撤退は「帝国の滅亡」というアフガニスタンの呪いによりソビエト連邦の解体を招いた一方、アフガニスタン国内においては民族対立と内戦を引き起こし、タリバーンによるイスラム政権の誕生につながる重要な転換点となりました。

ソビエト軍撤退後のアフガニスタン

内戦の要因

アフガニスタンの内戦は、ソビエト連邦の撤退後に始まりました。ソビエト軍の撤退後、複数の武装勢力が支配権を巡って争うようになりました。主要な部族にはムジャヒディンと呼ばれるイスラム教義に基づく反ソビエト軍事組織があり、彼らはソビエト軍との戦いで西側諸国から提供された豊富な武器と戦闘能力を得ていました。一方、内部では民族間の対立も深まり、特にパシュトゥン人とその他の主要民族間での緊張が高まっていました。

1996年 第一次タリバン政権の成立

1996年、タリバンはカブールを占領し、アフガニスタン・イスラム首長国と称して新たな政権を樹立しました。タリバン政権は宗教的指導者が影響力を持ち、厳格なイスラム法(シャリーア)を施行し、国家運営は宗教に基づいた厳格な体制でした。

2001年9月 タリバンの友好組織アルカイダによる同時多発テロ発生

2001年9月のアルカイダによるアメリカ同時多発テロの首謀者オサマ・ビン・ラディン
アルカイダのオサマ・ビン・ラディン

2001年9月11日に反米イスラム教テロ組織アルカイダによる同時多発テロがアメリカ東部で発生した。

2001年10月 アメリカ軍及びNATO軍の軍事介入

アメリカ政府は、アルカイダの指導者であるオサマ・ビンラディンの引き渡しをアフガニスタンのタリバンに要求しましたが、これが拒否されたため、2001年10月にアフガニスタンに軍事介入しました。

この戦争は「不朽の自由作戦」として知られ、テロリストの撲滅およびタリバン政権の崩壊を目的としました。

2001年末 第一次タリバン政権崩壊

2001年末までにタリバン政権は崩壊しましたが、タリバン勢力は完全に消滅せず、山岳地帯や地方部に活動拠点を残し、ゲリラ戦術を取り抵抗をつづけました。

2002年6月 アフガニスタン・イスラム移行政権の初代大統領にハーミド・カルザイが就任

ハミド・カルザイ元大統領
ハミド・カルザイ元大統領

ハーミド・カルザイ大統領の下で国際社会の援助を受けつつ、インフラ整備や教育、医療などの社会再建が図られましたものの、タリバンと他の反政府勢力の攻撃が続き、治安は安定しませんでした。

2021年8月 アメリカ軍の撤退とタリバン政権の再興

2021年8月、アメリカ軍はついにアフガニスタンからの完全撤退を完了しました。撤退後、アフガニスタンではタリバンによる統治が再び始まりました。