中世史❶;西突厥滅亡後のアフガニスタン西部・ホラサーン地方の支配者

西突厥滅亡と混乱期

西突厥の滅亡

西突厥は、かつて中央アジアに勢力を誇ったトルコ系民族の一つですが、その勢力はやがて唐との戦争や内部的な対立によって滅亡の道を辿ります。その過程ではいくつかの重要な出来事が重なり、一つの時代の終焉を迎えることになります。

突騎施(トルギッシュ)と蘇禄の登場

突騎施(トルギッシュ)は、西突厥が衰退する中で力を増し、中央アジアで頭角を現した勢力です。特に指導者である蘇禄(スーリュ)は巧妙な政治手腕を発揮し、黄姓や黒姓に属する他のトルコ系部族と結びつきながら、アフガニスタン周辺における影響力を強めていきました。このような背景の中で、突騎施は西突厥の後継者としての役割を担い始めたのです。

唐朝との戦争と敗北

西突厥と唐朝の間では、長きにわたる緊張が続いていました。唐朝はその戦略的な立地を活かし、西突厥に対する抑圧策を講じました。特に唐は、突騎施(トルギッシュ)を巧みに利用し、それを支援することで西突厥に対抗しました。この結果、西突厥は唐朝との戦争において次第に劣勢に立たされ、大敗を喫することになります。唐朝の強大さが、西突厥の滅亡への道を決定づけたのです。

滅亡後の政治的空白

西突厥が滅亡した後、中央アジアには大きな政治的・軍事的空白が生じました。この時期、突騎施やその他のトルコ系部族がそれぞれに勢力を築こうとしたため、地域の情勢はさらに複雑化しました。また、南からはイスラム勢力が進出を図り、アフガニスタンの地は新たな権力の闘争の舞台となったのです。このようにして、西突厥の滅亡は新たな時代の幕開けを告げることとなりました。

イスラム軍の侵攻とササン朝の滅亡

ニハーヴァンドの戦い

ササン朝とイスラム帝国の重要ないの場所となったニハーヴァンドの古城
ニハーヴァンド城

 ニハーヴァンドの戦いは、642年に発生したササン朝ペルシアとイスラム帝国との間の重要な戦いです。この戦闘がササン朝滅亡への決定的な一歩となりました。ササン朝は、ホスロー1世やディルハムの流通を通じて繁栄を誇っていましたが、長年の内紛とエフタルやビザンツ帝国との戦いで衰退の兆しを見せていました。イスラム帝国はこうした隙を突き、アフガニスタン方面からの侵攻を開始しました。ササン朝の最後の皇帝ヤズデギルド3世は、ニハーヴァンドの戦場でイスラム軍を迎え撃ちましたが、戦力の差は歴然としており、ササン朝軍は大敗を喫しました。この戦いでの敗北は、実質的にササン朝の支配を終わらせるものでした。

ササン朝の滅亡過程

 ニハーヴァンドの戦いの後、ササン朝は急速に崩壊の道をたどりました。ヤズデギルド3世は国外脱出を試み、各地で支援を求めましたが、いずれも成功しませんでした。ササン朝の広大な領土は次々とイスラム帝国の支配下に入り、ついには651年にヤズデギルド3世がバクトリアで暗殺されたことにより、ササン朝の支配は完全に終了しました。こうしてササン朝は、427年間続いた歴史に幕を閉じることとなりました。イスラム帝国の進出は、イラン文化やゾロアスター教にも大きな影響を及ぼし、地域の宗教と文化にも新たな潮流をもたらすこととなりました。

後継者たちの時代

九姓鉄勒の独立

西突厥の滅亡後、その後継者たちの時代が訪れました。特に九つのチュルク系有力部族で九姓鉄勒と呼ばれる集団が、当時の中央アジアの地政学的な舞台で独立を果たすことになりました。

 

これらの集団は、直接的にアフガニスタンを支配することはなかったものの、その勢力圏はアフガニスタンに隣接する中央アジア地域に及んでいました。特に、西突厥滅亡以前には、鉄勒の一部が西突厥に組み込まれ、アフガニスタン北部のバクトリア地方やトハリスタン地方と隣接するフェルガナ盆地などにも勢力を伸ばしていました。

 

このため、アフガニスタン北部地域の交易や文化的交流、さらには軍事的な圧力において、鉄勒系の部族やテュルク系遊牧民の影響が見られたと考えられ、地域の文化や政治の形成に貢献しました。各九姓は独自の文化を持ち、独立した勢力としての地位を確立し、その影響は現代にまで続いています。

イスラム勢力の進出と影響

イスラム勢力の進出は、西突厥の後継者たちの時代において非常に大きな影響を与えました。アラブからのイスラム教徒たちは、この地域に到来し、イスラム文化と宗教を広めました。アフガニスタンは、やがてイスラム文化の中心地となり、多くの学者や文化的な指導者がこの地から誕生しました。イスラム文化の浸透は、地域の人々の価値観や信仰に大きな変革をもたらし、その後の歴史的発展に重要な役割を果たしました。

文化的遺産とその継承

西突厥の後継者たちは、異なる文化的背景を持つ様々な民族が共存するこの地域で、豊かな文化的遺産を築き上げました。アフガニスタンは、多様な文化が交錯する場所として、長い歴史を通じて建築、文学、学問などの分野で多くの貢献をしました。この文化的遺産は、現代のアフガニスタンの文化的アイデンティティと密接に関連しており、その継承は文化的な誇りを持ち続けながら、さまざまな形で現代社会に生かされています。

イスラム帝国の勃興

正統カリフ時代の展開

 イスラム帝国の形成期となる正統カリフ時代(632年 – 661年)は、初代カリフのアブー・バクルから始まります。この時期、イスラム共同体がイランを含む広大な地域に急速に拡張しました。ササン朝の滅亡は、正統カリフ時代の初期に起こり、その後、カリフ政権は新たな支配体制を整備していきました。中央アジアを含む広範な地域の人々は、イスラムの信仰と文化を受け入れ、新しい社会システムの中で生活を始めました。

アラブによるペルシア征服

 642年のニハーヴァンドの戦いは、ペルシア(現在のイラン)に対するアラブの勝利を決定付けた戦闘でした。これによりササン朝は弱体化し、最終的に651年に滅亡します。アフガニスタンの地域もまた、この時期にアラブの影響を強く受けるようになりました。この征服は、文化的、宗教的な変革をもたらし、ゾロアスター教徒からイスラム信仰への移行が促進されました。

ウマイヤ朝とアッバース朝の成立

 正統カリフ時代の後、ウマイヤ朝(661年 – 750年)が確立され、ダマスクスを中心に広大な領土を支配しました。715年頃からはアフガニスタン西部にまで勢力を拡大し、ホラーサーン地方を通じて影響を及ぼし、一部地域で支配を確立しました。この時期、イスラム帝国は高度に中央集権化され、行政や貨幣制度の改革が進められました。

 

750年にはウマイヤ朝を倒してアッバース朝が成立し、アフガニスタン一帯も支配下に置きました。アッバース朝の統治はホラーサーン地方を通じて間接的に影響を及ぼしました。アッバース朝は、都をバグダッドに移してさらなる文化的発展を遂げました。

 

821年以降アッバース朝からホラサーンの統治を委任されたターヒル朝は、事実上の独立状態を確立しホラサーン地域を含めアフガニスタンの一部を支配下に置きました。しかし、873年サッファール朝によって滅ぼされ短命王朝となりました。サッファール朝は、勢力を拡大し一時期アフガニスタン全域を支配するまでになったものの、最盛期は短く900年には滅亡しその支配期間は僅かでした。

 

ウマイヤ朝とアッバース朝の時代を通じて、アフガニスタン地域はイスラム文化の浸透を経験し、後のイスラム世界の発展に重要な役割を果たすようになります。

アフガニスタンの歴史的役割

イスラム軍の侵攻とパシュトゥーン民族の勃興

 アフガニスタンは、ササン朝の滅亡とイスラム帝国の勃興という歴史的転換期において非常に重要な役割を果たしました。特にイスラム軍の侵攻によって、アフガニスタンの地域はイスラム文化と宗教の大きな影響を受けました。この時期、彼らの侵攻はパシュトゥーン民族の台頭と結びついており、アフガニスタン内での権力と影響力を強めていきました。ササン朝が弱体化していく中で、アフガニスタンの地域は、新たな宗教的、文化的エネルギーに満ちたイスラム文化に取り込まれていきました。

アフガニスタンにおけるアラブ影響の浸透

 アフガニスタンにおけるアラブの影響は、地域の文化や社会を大きく変化させる要因となりました。イスラム帝国の支配の下、アフガニスタンは新しい行政と経済の体系を導入され、地域の商業活動が活発化しました。このような変化は、アフガニスタンの住民に新しいイスラム教の信仰やアラビア語の使用をもたらし、社会全体の文化的統合を進めました。こうした影響は、アフガニスタンがその後の世紀にわたってイスラム世界の重要な一部であり続けるための基礎を築きました。