中世史➏-2;モンゴル帝国が制圧した方法とアフガニスタン近郊の主戦場

広大な地域を支配したモンゴル帝国

モンゴル軍の特徴

 モンゴル帝国は13世紀に誕生し、チンギス・ハーンの下で中国から中央アジア、西アジアに至る広大な地域を征服し、世界史上最大級の帝国を築き上げました。その成功の背後には、卓越した軍事戦術、柔軟な統治体制、そして徹底した戦略がありました。モンゴル平原の人口が数百万、兵士数が数十万と限られていたにもかかわらず、広大な地域を支配下に置けた理由と、その過程で起きた主要な戦いについて解説します。

モンゴル帝国の軍事的優位性

機動力と戦術の革新

 モンゴル軍の中核は騎馬兵にありました。モンゴル軍の騎馬兵は軽装で一人の騎馬兵が3~4頭の馬を引き連れて馬が疲れたら乗り換えることで迅速に移動出来、1日で80~100kmの距離を進むことが可能なため、敵の不意を突く作戦を得意としました。また、偽退却戦術や包囲戦術などを巧みに駆使し、数に劣る場合でも敵を分断して勝利を収めました。

優れた武器と訓練

 モンゴルの複合弓は小型で軽量ながら強力で、敵軍の射程外から正確な攻撃が可能でした。兵士たちは幼少期から騎馬と弓の訓練を受けており、彼らの戦闘能力は当時のどの軍隊よりも高いものでした。

モンゴル軍の包囲戦

経験に基づく卓越した攻城戦 

 1211年に金と開戦モンゴル軍は、長城を越えて長城と黄河の間の金の領土奥深くへと進軍し、金の軍隊を破って華北を支配した。モンゴル軍は野戦では勝利を収めたものの、堅固な城壁に阻まれ主要な都市の攻略には失敗した。しかし、モンゴル軍は中国人から攻城戦の方法を習得し、攻城戦術を身に付けて攻め落としていった。この経験を基にホラズム・シャー軍との戦いでは短期間に落城させている。

恐怖戦略

 抵抗する都市を徹底的に破壊し、大量虐殺を行うことで、他の都市や国家を威圧しました。サマルカンド、ヘラートやメルヴでは、多数の住民が殺害され、都市が壊滅しました。このような恐怖戦略は、ホラズム・シャー軍の士気低下を招き、住民を混乱に陥れることでモンゴル軍の進撃を円滑に進める大きな要因となりました。

 

 その他にも、老いた者は殺害し、若い女性と子供は奴隷化、征服地の男性を強制的に徴兵し、モンゴル軍の最前線の戦闘部隊や補給部隊に組み込み後方から督戦部隊が監視する等の行為が行われました。モンゴル軍が転戦し続けられたのは、モンゴル人で構成された本体は後方で督戦監視を行い新たに従属させた兵士を前線に送るため損失が少なかった、と考えられます。

 

モンゴル帝国の効率的な統治

現地の制度を活用

 モンゴルは征服地の官僚制度や支配者層をそのまま利用することが多く、既存の統治機構を維持しました。例えば、中国では金朝や宋朝の官僚制度を採用し、イランではペルシア系の官僚を重用しました。

宗教寛容政策

 モンゴルはイスラム教、キリスト教、仏教、道教など、さまざまな宗教を認めました。この寛容政策により、征服地の住民がモンゴル支配に対して大規模な反乱を起こすことを防ぎました。

通信網と物流の整備

 ジャム制度と呼ばれる通信網を整備し、広大な帝国の隅々まで迅速に命令を伝えることが可能でした。この制度により、行政や軍事行動の効率が大幅に向上しました。

征服対象の脆弱性とモンゴルの対応

内部分裂を利用

 モンゴルが侵攻した地域の多くは内部分裂や対立が深刻でした。中国北部では金朝と南宋の対立が続いており、中央アジアのホラズム・シャー朝も内部の反乱に悩まされていました。モンゴル軍はこうした弱点を巧みに利用しました。

技術者の活用

 征服地の技術者や工兵を強制的に動員し、城壁を破壊する投石機などの最新技術を導入しました。特に包囲戦では、これらの技術が大きな役割を果たしました。

ホラズム・シャー朝との主な戦いとその影響

 モンゴル軍の西征の兵力は、正確な記録としては残っていないもののロシアの東洋学者ワシーリィ・バルトリドによれば15~20万と推計している。モンゴル軍は、1220年にはホラズム・シャーのほとんどを支配下に置いている。

サマルカンドの戦い(1220年)

 サマルカンドはホラズム・シャー朝の重要な都市で、モンゴル軍の侵攻を食い止める鍵と見られていました。しかし、モンゴル軍は巧みな偽退却戦術を駆使し、わずか数日の包囲で都市を陥落させました。サマルカンドの住民の多くは虐殺され、生き残った者は捕虜として連行されました。この戦いの勝利により、モンゴルはホラズム全域を征服する道を開きました。

ブハラの戦い(1220年)

 ブハラは文化的に重要な都市であり、モンゴルの侵攻の初期段階で陥落しました。チンギス・ハーンは市内のモスクを一時的な本陣とし、「この都市の運命は天が決めた」と語ったとされています。ブハラの住民もまた虐殺され、多くの建物が破壊されました。

バルフの戦い(1221年)

 アフガニスタン北部のバルフは、モンゴル軍による中央アジア侵攻の中で重要な拠点の一つでした。この戦いでもモンゴル軍の圧倒的な軍事力と戦術が発揮され、都市は壊滅しました。バルフはその後、長い間復興できない状態に陥りました。

バーミヤンの戦い(1221年)

 バーミヤンでは激しい抵抗が行われました。この戦いで、チンギス・カンの孫モエトゥケン(チンギス・カンの次男チャガタイの長男)がバーミヤーンの城塞から射られた矢が当り戦死した伝えられています。このため、モンゴル軍は大規模な攻撃を行い、要塞を陥落させました。チンギス・カンはその報復としてバーミヤーンを陥落すると徹底的に破壊し、「生ける者は全て殺せ」と命じ、住民も老若男女から動物まで徹底的に虐殺したと言います。当時のバーミヤンの人口は1~2万人と言われています。

ヘラートの戦い(1221年)

 ヘラートはアフガニスタン西部の要衝であり、モンゴル軍の侵攻により壊滅的な被害を受けました。ヘラートの住民は一度は抵抗しましたが、最終的には降伏を余儀なくされ、多くが殺害されました。この戦いはモンゴルの恐怖戦略の象徴とされています。

メルヴの戦い(1221年)

 現在のトルクメニスタンのカラクム砂漠に存在したホラズム・シャー朝最大の都市で当時で人口100万を超えていたと言われています。モンゴル軍の攻撃を受け400人の職工及び奴隷として僅かな少年少女を除いて殺害され、その数は70万~130万人とも言われています。地下に隠れていて難を逃れていた者や避難した後メルヴに再び帰ってきた者も相次ぐモンゴル軍の攻撃を受け殺害され、最終的に生き残った者は数名と言われています。

モンゴル帝国の侵攻と支配がもたらした影響

深刻な人口減少

 モンゴルの侵攻により、多くの都市が壊滅し、住民が虐殺されました。特に抵抗した都市では、住民の大半が殺害されることがありました。一方で、降伏した都市には比較的寛大な政策が取られることもありました。

交易路の再編

 征服地の交易路を掌握し、シルクロードの安全を確保することで、東西交易が活発化しました。これにより、モンゴル帝国の支配下での経済活動が一部の地域で再生しました。

文化交流の促進

 広大な帝国の下で、さまざまな文化が交流し、新たな技術や思想が広まりました。モンゴル帝国の支配は、破壊だけでなく、新たな文化的融合の契機ともなったのです。

モンゴル帝国の広域支配を可能にした理由

 モンゴル帝国が限られた人口と兵力で広大な地域を支配下に置けた理由は、軍事的な優位性、柔軟で効率的な統治、そして戦略的な資源活用にありました。サマルカンドやブハラ、バルフ、ヘラートといった都市での戦いは、その軍事力と戦術がいかに優れていたかを物語っています。一方で、彼らの支配は破壊的な側面だけでなく、東西文化の融合や交易の再活性化など、世界史における重要な影響も与えました。

 

 このようにして、モンゴル帝国はその時代における世界の地図を大きく塗り替え、人類史に深い爪痕を残したのです。

 

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