アフガニスタン略史;紀元前から六世紀

紀元前

BC600年  バクトリア(今のバルフ)でゾロアスター生誕

BC600年頃、当時大都会であったバクトリア(現バルフ)でゾロアスター教(拝火教)の開祖ゾロアスターが生まれました。
 ゾロアスターの死亡した年にぺルシャのアケメネス朝の王となるダリウスが生まれ、彼が王となるとバクトリアを含めアフガン全域を支配地とします。

 

BC330年 アレクサンダー軍アフガニスタン侵攻
   アレクサンダー軍カイバル峠を越えインドへ

 BC334年に入ると西方ではアケメネス朝の支配下にあったギリシャ諸ポリスを解放すべくマケドニアの王アレクサンダーは東征の途につき、諸ポリスをペルシャの支配より開放しつつ東へと軍を進め、ついにアケメネス朝を破り、その勢いのままBC330アフガンに侵攻してきました。

 

 現在のヘラートはアフガニスタンでアレクサンダーが建てた最初のギリシャ人の都市で「アーリア人のアレクサンドリア」と名付けられます。
 アレクサンダー軍はバルーチ地方へ進み、カンダハルを経て北上しカーブルを奪取し、さらに軍を北に向けヒンドゥークシュを越えてバクトリアに進みます。バクトリアを征服するとその地の貴族の娘、王の息子アレクサンダー4世の母となるロクサーヌと(政略?)結婚します。

 

BC323年 アレクサンダー死亡

BC323齢33歳にしてアレクサンダーは死亡

 

BC305年 アフガニタンはアレクサンダー軍将軍のセレウコス朝の支配下

 アレクサンダー死亡後アレクサンダー軍の将軍セレウコスがぺルシャ世界を支配するようになります。

 アフガニスタンの地もセレウコス朝の支配下に入るのですが、BC256年バクトリアのギリシャ人支配者ディオドトスがセレウコス朝からのバクトリア独立を宣言、それと時を同じくし、東北イランではパルティア王国もセレウコス朝からの独立を宣言します。これによりアフガニスタンはバクトリアとパルティアにより分割されることになります。

 

BC256年 バクトリア国セレウコス朝から独立

イランでパルティア王国セレウコス朝から独立ヘラートを支配下に、ガンダーラ地方をバクトリア王国が奪取。その後バクトリア王国は、インド北西部までを支配下に治める。

 

BC135年 中央アジアの遊牧民アフガン北部に侵攻開始

 そのバクトリアのギリシャ人国家はBC150年頃中央アジアの遊牧民の侵攻を受け、その中の一部族のサカ族によって滅ぼされました。そのサカ族も大月氏の一部族クシャーン族のたてたクシャーン朝によって滅ぼされました。

BC050年 クシャーン朝アフガニスタンの大部分を支配下に

アフガン北部、東部はクシャーン朝により統治されます。このクシャーン朝の時代にシルクロードと呼ばれるようになる交易路が登場します。 2世紀半ばにクシャーン朝のカニシカ王はカーブルを夏の都、現パキスタンのぺシャワールを冬の都に定め仏教を保護します。その結果このガンダーラ地方においてガンダーラ美術が花開くことになったのです。

紀元後

AD224年 イランのパルティア王国ササン朝により滅ぼされる

 一方BC225年頃ぺルシャではパルティアを滅ぼしたアンダシール1世がササン朝を建て、アフガン西部と南部はアルサケス朝パルティアの手からササン朝へと支配者が変わる事になり、ここにアレキサンダー以降のギリシャ人によるアフガニスタンの支配は終わりを告げました。

 

 ササン朝がさらに勢力を拡大していく一方でクシャナ朝はササン朝に圧迫されどんどん衰退していきます。そんな中でも仏教文化が残こっていたバーミアンでは3〜4世紀の間に有名な石仏が彫られました。630年には玄奘三蔵もこの地を訪れています。

450年 バクトリアに北方からエフタル侵攻

 クシャーン朝の衰退をうけ5世紀中頃には中央アジアの遊牧民王国エフタルが南下を始めバクトリアへ侵攻し次いでカーブル、ぺシャワールなどのガンダーラ地方を支配下にいれ、その後約100年間これらの地を支配します。

565年 チュルク系の突厥と同盟を結んだササン朝がエフタルを滅ぼす

 565年チュルク系の突厥と手を結んだササン朝はエフタルを滅ぼし、その結果アムダリヤの北を突厥が支配し、南をササン朝が支配する事になり、ササン朝によるアフガニスタンの支配が始まりました。ササン朝はアフガン北部をエフタル系の人達に、南部をクシャ−ン系の人達に統治させました。

651年 アラブ侵攻とササン朝の終焉

 ササン朝ペルシャは651年のアラブ侵攻により滅亡しました。特に642年のニハーヴァンドの戦いでの敗北が致命的で、ササン朝の軍事力が大きく削がれました。ヤズデギルド3世がササン朝ペルシャ最後の皇帝であり、彼の治世下で事実上崩壊しました。