中世史⓫;サファヴィー朝を再興したナーディル・シャーのアフシャール朝

アフシャール朝の誕生と背景

サファヴィー朝からアフシャール朝へ混乱期のイラン 

Ali Zifan, Afsharid dynasty (greatest extent), CC BY-SA 4.0
アフシャール朝の最大勢力図

 アフシャール朝は、18世紀のイランにおける混乱期を経て誕生しました。その背景には、サファヴィー朝の衰退が重要な役割を果たしています。サファヴィー朝は、16世紀から17世紀にかけてイランを支配した強大な王朝でしたが、18世紀になると指導者の無能や内部の腐敗、地方勢力の台頭により国力が次第に低下しました。これを契機に、外部からの侵略が頻発するようになり、特にアフガニスタンを拠点とするホータキー朝がイラン東部を占領し、サファヴィー朝を崩壊寸前まで追い込みました。こうした内外の混乱は、新たな政治的リーダーの登場を招くこととなります。

ナーディル・シャーの台頭とその政治的戦略 

ナーディル・シャー・アフシャール像

 ナーディル・クリー・ベグ(即位後:ナーディル・シャー)は、1688年に現在のイラン北東部にあたるアフシャール部族の出身として生まれました。ナーディル・シャーは、若い頃からアフシャール部族出身の軍人として才能を発揮し、部族内での指導者として頭角を現していきました。彼の台頭は、混乱に陥っていたイランを立て直す鍵となります。ナーディルはまず、軍事力を強化し、地方の有力部族を巧みに取り込むことで自らの基盤を固めました。

 

 また、1729年、ナーディルはホータキー朝の支配下にあったイスファハーンを奪回し、サファヴィー朝を一時的に復興させることに成功しました。これにより彼はイラン全土にその名を広め、実質的な支配者としての地位を確立しました。しかし、サファヴィー朝を単に復興させるだけでは終わらず、ナーディルは独自の王朝を築くという野望を抱いていました。

アフガン人の支配の終焉とナーディル・シャーの登場

 ナーディル・シャーがその名を歴史に刻んだ出発点は、アフガニスタン支配を終わらせた功績にあります。アフガニスタンを拠点とするホータキー朝は、イラン東部を侵略し、サファヴィー朝を破るなど、イランにとって深刻な脅威でした。しかし、ナーディルは徹底的な軍事作戦を展開し、ホータキー朝を駆逐することに成功します。この勝利により、イラン東部は再び統一され、ナーディルは名実ともにイランにおける支配者としての地位を確立しました。彼のこの勝利は、アフシャール朝の興亡における第一歩であり、その後の軍事的・政治的勝利への足掛かりとなりました。

遊牧系国家としての構造と文化的特徴

 アフシャール朝は、遊牧系国家としての特色を色濃く持つ王朝でした。その中心となるナーディル自身が遊牧民のアフシャール部族出身であることが、その王朝の社会的・文化的特徴に強く影響を与えています。アフシャール朝では、中央集権的な統治体制が構築される一方で、地方部族や遊牧民の独自性も一定程度尊重されていました。

 

 また、イランの歴史的背景や宗教的多様性を考慮しながら、複数の文化的要素を融合させる政策が取られており、この点は遊牧系社会の柔軟性が反映されたものと考えられます。さらに、軍事力に大きく依存した支配体制は、遊牧民の戦闘能力や機動力を最大限に活用した結果と言えるでしょう。

ナーディル・シャーの軍事的成功と帝国の拡張

ホラーサーンからの始動と初期軍事遠征

 ナーディル・シャーはホラーサーン地方を拠点に、その政治的・軍事的な台頭を始めました。当時のイランはサファヴィー朝崩壊後の混乱期にあり、地方勢力や外部の侵略者がイラン各地に影響を及ぼしていました。ナーディルはこの状況を巧みに利用して、各地の部族を統率し、軍事力を強化していきました。特に、遊牧民としての背景を持つ彼の軍隊は、機動力に優れた騎兵を中心として編成されており、その機敏な動きは敵に対して大きな優位性を発揮しました。

 

 ナーディルの初期の軍事遠征は、アフガニスタン支配を目指したものが中心でした。アフガニスタンは交易の要衝であり、その支配はイランにとって戦略的に極めて重要でした。彼はこれを踏み台として、さらなる拡張計画を実現させていきます。

ナーディル・シャーのアフガニスタン遠征

 ナーディル・シャーは、アフシャール朝の統一と領土拡大を目指し、アフガニスタンへの遠征を行いました。この遠征は、イラン東部の安定を確保し、交易路の重要な拠点であるアフガニスタンを支配下に置く目的がありました。当時、アフガニスタンは戦争や部族間の抗争により分裂状態にあり、この混乱した状況を利用してナーディル・シャーは軍事行動を起こしました。彼はその戦略的才能を活かし、アフガニスタンの主要都市を次々と占領していきました。この遠征は、彼の軍事的野心を象徴するだけでなく、アフシャール朝の勢力拡大の一環とも言えます。

カーブル占領とその後の統治政策

 ナーディル・シャーはアフガニスタン侵攻の過程でカーブルを征服し、その後の統治政策において強力な中央集権体制を敷きました。彼は現地の部族や指導者に対して威圧的な手法を取る一方で、従順な者には比較的寛容な姿勢を示しました。このような政策は短期的には治安の安定をもたらしましたが、長期的にはアフガニスタン社会に新たな不満を生み出しました。また、経済面では交易路を確保し、カーブルを経済的にも軍事的にも要地として位置付ける戦略を展開しました。しかし、これらの施策はアフガニスタンの多様な部族社会との摩擦を避けることができず、統治の基盤は脆弱でした。

アフガニスタン社会における変化と抵抗運動

 ナーディル・シャーによるアフガニスタン支配は、現地社会に大きな変化をもたらしました。部族間の勢力バランスが崩れる中、中央集権への締め付けが強化された一方で、地方の自立性が損なわれることへの抵抗が各地で勃発しました。特に、伝統的な部族指導者や宗教指導者たちは、ナーディルの支配方針に反発し、武力を伴う抵抗運動を展開しました。これにより、アフガニスタンは多くの地域で不安定な状態に陥り、ナーディル・シャーの挑戦的な統治政策が持続可能でないことが露呈しました。また、この時期にはアフガニスタンの民族的、宗教的アイデンティティの形成にも影響を及ぼし、後の独立運動の基盤となる要素が芽生える結果となりました。

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