現代史❶;アフガニスタン近代化の父アマーヌッラー・ハーンと第三次アフガン戦争

アマーヌッラー・ハーンの生い立ちと背景

アマーヌッラー・ハーンの誕生と家族 

ヌッラー・ハーンの父ハビーブッラー・ハーン

 アマーヌッラー・ハーンは1892年、アフガニスタンの王族を継承する一家に生まれました。彼の父は当時のアフガニスタンの統治者であり、バーラクザイ朝の王であったアブドゥル・ラフマーン・ハーンの跡を継いだハビーブッラー・ハーンです。母親も貴族の血筋を引く人物であり、このような家庭環境の中でアマーヌッラーは幼少期から責任感と王族としての自覚を養いました。彼の生まれた時代は、イギリスとアフガニスタンの間で繰り返されてきたアフガン戦争の影響が色濃く残る時期であり、その環境が後の彼の統治や改革に影響を与えました。

幼少期の教育と影響を受けた思想 

アマーヌッラー・ハーン国王

 アマーヌッラー・ハーンは幼少期から質の高い教育を受け、イスラム教と伝統的なアフガニスタン文化への理解を深める一方で、父ハビーブッラー・ハーンによる近代化政策の影響も大きく受けました。特に、ヨーロッパ諸国の近代化や改革の動きについて強い関心を持ち、西洋の進歩思想を学びました。また、彼はアフガニスタンの完全独立に対する強い志を抱いて育ち、のちにイギリスとの対立や第三次アフガン戦争を主導する際の理論的基盤となる独立思想を確立しました。

社会状況と当時のアフガニスタン

 アマーヌッラー・ハーンが成長するにつれ、アフガニスタンの社会情勢は周辺諸国の影響を強く受けるようになりました。特に19世紀から始まったイギリスとロシアの「グレート・ゲーム」による圧力が続き、アフガニスタンは独立国でありながらもイギリスに対する一定の従属関係が課されていました。これにより、国内では自由を追求する声と、外部からの干渉を拒む機運が高まりました。経済的には貧困が蔓延し、社会的には伝統的な部族構造が強い影響力を保っており、このような状況の中で近代化に向けた王族の姿勢が問われることとなりました。

国王即位までの歩み

 アマーヌッラー・ハーンが国王に即位するまでの道のりは、父ハビーブッラー・ハーンの影響抜きには語れません。ハビーブッラー・ハーンは自らの在位中、国内の安定を図りながらもイギリスとの協調関係を保つ政策を取っていました。しかし、1919年に父の暗殺事件が発生し、その責務がアマーヌッラーに引き継がれる形となります。混乱の中で王位を継承したアマーヌッラーは、即位当初からアフガニスタンの完全独立を実現するという明確なビジョンを掲げ、第三次アフガン戦争の開始へ向けて大胆な決断を下しました。この即位は、アフガニスタンの歴史において転換点とも言える出来事でした。

第三次アフガン戦争とアフガニスタンの独立

第三次アフガニスタン戦争の背景

 第三次アフガン戦争(「第三次アングロ・アフガン戦争」ともいう)の背景には、アフガニスタンの独立を求める動きと、イギリス帝国の植民地支配に対する対立がありました。19世紀から20世紀初頭にかけて、アフガニスタンはイギリスとロシアの「グレート・ゲーム」という勢力争いの舞台となっていました。この中で、イギリスはアフガニスタンを自国の勢力圏に取り込もうとし、第二次アフガン戦争の結果としてアフガニスタンを保護国化しました。しかし、この支配は多くのアフガニスタン国民にとって屈辱的なものであり、独立を望む声は強まっていました。アマーヌッラー・ハーンが1919年2月28日に国王に即位すると独立を宣言し、イギリスに対して戦争を挑む決断を下しました。

第三次アフガン戦争の経過

 第三次アフガン戦争は1919年5月、アマーヌッラー・ハーンによるジハード宣言から始まりました。この戦争は短期間であったものの、アフガニスタンとイギリス領インドの軍隊との間で激しい戦闘が繰り広げられました。アフガニスタン側は主にゲリラ戦術を用いてイギリス軍に圧力を加え、またイギリスが第一次世界大戦により疲弊し不安定な状況にあったこともこの戦争を有利に進める要因となりました。一方で、イギリスは戦争が長引くリスクを避けるために早期の和平交渉を模索しました。このような状況の中で、戦争は数ヶ月の間で終結に向かいました。

戦局を左右した要因と戦術

 第三次アフガン戦争における戦局を左右した要因の一つが、地形と戦術の巧妙な活用でした。アフガニスタンはその山岳地帯を最大限に生かし、イギリス軍の進攻を難航させました。特にカイバル峠などの要地での戦闘は、アフガン軍の善戦の象徴となりました。この地域の地形は防御的な戦術に適しており、アフガン兵たちはゲリラ戦術を駆使して戦いました。

 

 また、イギリス軍の戦闘力が低下していたことも重要な要因の一つでした。第一次世界大戦後のイギリス軍は人的資源も兵器も不足しており、アフガニスタンとの戦争に全力を注ぐことはできませんでした。さらに、内部での反植民地運動の高まりも、イギリスにとっての重圧となりました。これらの要因が重なり、最終的にイギリスはアフガニスタンの外交権回復を認めざるを得なくなりました。

国際的反響と列強の反応

 アフガニスタンの独立を目指した第三次アフガン戦争は、国際社会にも大きな反響を引き起こしました。中でも特筆すべきは、当時の新興勢力であるソビエト連邦の支持です。ソビエト連邦はイギリスの影響力を南アジアから削減するという共通の利益を持ち、アフガニスタンの独立運動に対して好意的な姿勢を示しました。

 

 一方、イギリスにとってアフガニスタンでの敗北は植民地支配の弱体化を象徴する出来事となり、他の植民地地域でも独立運動を刺激する結果となりました。そのため、戦争の結果として独立が承認されたアフガニスタンは、他国にとっても新たな希望の象徴として捉えられました。このように、第三次アフガン戦争は単なる二国間の争いではなく、世界の勢力図にも影響を及ぼした歴史的な出来事だったのです。

ラーワルピンディー条約とその意義

 第三次アフガン戦争の結果、1919年8月にラーワルピンディー条約が締結されました。この条約により、イギリスはアフガニスタンの完全独立を公式に認めました。これに伴い、アフガニスタンは外交や内政において自由に政策を行う権利を得ました。この独立はアフガニスタン国民にとって誇り高い成果であり、1919年8月19日は現在でもアフガニスタンの独立記念日として祝われています。この条約は、イギリスにとっては勢力拡大を一部放棄する痛手であったものの、長期的な紛争を避けるための妥協でもありました。一方、アマーヌッラー・ハーンにとっては国際社会におけるアフガニスタンの独立を高らかに宣言する機会となり、その評価を大きく高めました。

独立後のアフガニスタンの変化

 アフガニスタンの独立後、アマーヌッラー・ハーンは国家の近代化に向けた改革を進めました。外交面では、イギリスの影響力から脱却し、ソビエト連邦や他の国々と積極的な交流を図りました。一方で内政においても、法律、教育、経済など多岐にわたる分野で改革が行われました。

 

 特に、教育制度の刷新や女性の権利向上などは注目に値します。しかし、これらの改革は一部の保守的な勢力から反発を招き、国内には混乱が生じることもありました。独立後のアフガニスタンは政治的にも社会的にも新たな試練の時代を迎えることとなりますが、アマーヌッラー・ハーンの指導の下、近代国家への歩みを進めていくこととなりました。

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