中世史❿;アフガニスタン部族連合系王朝ホータキー朝

カンダハールの歴史的背景と地理的条件

カンダハールの地理的要因が果たす役割 

Ali Zifan, Hotak dynasty (greatest extent), CC BY-SA 4.0
ホータキー朝の最大勢力範囲

 カンダハールは現在のアフガニスタン南部に位置し、中東と南アジアを結ぶ重要な交易路上にあります。この戦略的な地理的要件は、歴史を通じて支配者にとって大きな魅力となってきました。西にペルシア高原、東にヒンドゥークシュ山脈、南にはバローチスターンの広大な平野が広がり、これらの地形は交易や軍事的移動を促進する役割を果たしました。

 

 特に、シルクロードの南ルートに位置することで、古代から多くの文明の交流地点として機能し、多くの王朝や勢力から争奪の対象となっていました。そのため、カンダハールは「ロイ・カンダハール(大カンダハール)」と呼ばれアフガニスタン支配の要衝として重要視されました。

サファヴィー朝とカンダハールの関係

 カンダハールは、サファヴィー朝にとって戦略的に重要な都市でした。16世紀から17世紀にかけて、サファヴィー朝は現在のイラン全域とその周辺地域を支配し、カンダハールをその支配地に組み込むことで東方への影響力を強化していました。しかし、カンダハールはその地理的要因からムガル帝国やオスマン帝国など他の強大な勢力からも狙われ続けました。

 

 このため、カンダハール周辺は頻繁に戦場となり、サファヴィー朝の防衛政策に多大な影響を及ぼしました。シーア派の拡大を公式宗教とするサファヴィー朝にとって、カンダハールの支配はスンニ派イスラム世界への影響を拡大する意味も持っていましたが、この支配はしばしば脆弱で、地域の不安定さを引き起こしました。

 

 アフガニスタン地域ではスンニ派の信仰が根強く、サファビ朝の支配層が強制的なシーア派改宗政策を進めたことは住民の反感を買いました。この対立が原因で地域住民の反抗が頻発し、最終的にホタキ族のような反乱勢力を生み出すこととなりました。宗派の対立は単なる宗教の問題にとどまらず、部族間抗争や政治的対立とも結びつき、地域全体を不安定なものにしていきました。

パシュトゥーン系ホータキー族の台頭

 18世紀初頭、カンダハール周辺ではパシュトゥーン系キルザイ部族連合に属するホータキー族がスレイマーン山脈一帯から勢力を拡大し始めました。彼らは部族的な結束をもとに、サファヴィー朝の支配に抵抗し、地域で勢力を拡大していきました。その背景には、サファヴィー朝による圧政や宗教的な対立がありました。特に、シーア派を公式宗教としたサファヴィー朝の政策は、スンニ派を信仰するパシュトゥーン系部族にとって敵対的なものであったことが対立を深めました。ホータキー族は、部族間の同盟や民族的独立の意識を強化し、最終的にはサファヴィー朝に対して直接的な反乱を引き起こすに至りました。

18世紀初期のカンダハールにおける宗教的対立

 18世紀初期のカンダハールでは、宗教的対立が地域の不安定化を助長しました。この地は昔からアフガニスタン地域における戦略的要衝であり、ホータキー族が拠点を形成するのに理想的な場所でした。ホータキー族は、カンダハールを中心に勢力を拡大し、サファビー朝の影響を排除するための拠点としました。サファヴィー朝がシーア派を広める政策を取ったことが、スンニ派が多数を占める地域社会との間に深刻な摩擦を生み出しました。

 

Muhammad Hassan, Mausoleum of Mirwais Hotak, Kandhar, CC BY-SA 4.0
ミルワイス・ホータキーの霊廟

 この宗教的な緊張は、単なる信仰の相違を超え、政治的野心や支配の正統性を巡る争いへと発展しました。その結果、ホータキー族を中心とするスンニ派住民は、支配者であるサファヴィー朝への反感を募らせ、これが最終的にホータキー朝の興隆を導く要因の一つとなりました。宗教的な対立は単なる地域内部の問題ではなく、広域なアフガニスタン支配や周辺勢力の興亡にも影響を与える重要な要素でした。

ホータキー朝の成立と勢力拡大

ホータキー族の反乱とサファヴィー朝への挑戦

 18世紀初頭、アフガニスタン南部を拠点とするパシュトゥーン系のホータキー族は、サファヴィー朝の中央集権的な支配に反発し、独立を求める動きを強めました。当時のサファヴィー朝は、長期にわたる抗争や内部的な混乱によって弱体化しており、カンダハールなど周辺の支配地でその影響力が低下していました。ホータキー族はこの機会を捉え、反乱を起こしてサファヴィー朝に挑戦しました。この反乱は、ホータキー朝の成立への第一歩となり、その結果、サファヴィー朝の権威に大きな傷を与えました。

ミール・ワイス・ホータキーの指導力 

 ホータキー朝の創設者となるミール・ワイス・ホータキーは、カンダハール出身の有能な指導者であり、同地の社会的・宗教的なリーダーでもありました。彼は冷静な判断と巧妙な戦略を駆使して、サファヴィー朝の支配からカンダハールを解放しました。ミール・ワイスはサファヴィー朝の弱体化を見抜き、その勢力を追い出した後、ホータキー族の結束を固め、独立した政権を樹立しました。彼の指導力により、ホータキー族は一時的ながら地域での影響力を大きく拡大しました。

 

マフムード・ホータキーの肖像画

特に、1722年にはホタキ族の指導者であるマフムード・ホータキーがサファヴィー朝の首都イスファハーンを攻略し、一時的ではありますがペルシアを支配しました。しかし、その統治は長くは続かず、サファヴィー朝とアフシャール朝の反撃によってホータキー朝は衰退し、興亡の一局面を迎えます。この一連の出来事は、土着部族が地域のパワーバランスにいかに影響を与え得るかを示す具体的な例となっています。

ホータキー朝成立後の対外政策

 ホータキー朝は成立後、サファヴィー朝からの独立を維持するだけでなく、支配地を拡張するための積極的な対外政策を展開しました。特にペルシア地域への進出を試み、アフガニスタン南部の支配を強固なものとしました。しかし、ホータキー朝には中央集権的な統治体制が欠けており、異なる部族間での結束が弱かったため、大規模な支配地を長期的に維持することは困難でした。それでもホータキー朝の外交と軍事的活動は、地域の勢力図を一時的に大きく変える役割を果たしました。

短命に終わったホータキー朝の支配

 ホータキー朝は18世紀中頃にはその勢力を急速に失い、短命な王朝として歴史にその名を刻むこととなります。要因としては、ホータキー朝内部の部族間対立や統治体制の未成熟さ、さらにサファヴィー朝や後継王朝アフシャール朝のナーディル・シャーによる軍事的な圧力が挙げられます。また、周辺諸勢力との外交の失敗や経済的な不安定さも加わり、最終的にホータキー朝は衰退を余儀なくされました。それにもかかわらず、ホータキー朝の興亡は、アフガニスタンの歴史や地域のアイデンティティに今なお残る影響を与えています。

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