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フラグの遠征とイル・ハン国の成立
フラグ・ウルスとイル・ハン国の始まり

イル・ハン国は、13世紀にモンゴル帝国の西方遠征を指揮したフラグ(フレグとも呼ばれる)によって建国されました。フラグはチンギス・ハンの孫であり、1250年代にモンゴル帝国第4代皇帝モンケ・ハンの命令を受けて西アジア遠征を進めました。その過程で1258年にバグダードを占領し、約500年にわたるアッバース朝の統治を終わらせました。これにより、現在のイランやイラク、さらにはシリアに及ぶ広大な地域がモンゴル帝国の支配下に入りました。1260年、アインジャールートの戦いでマムルーク朝に敗北した後、フラグはタブリーズ(現在のイラン西部)を拠点として独自の権力基盤を築き始めました。これがイル・ハン国の始まりとされ、当初はモンゴル本国の一部としての位置づけでした。
1260年以降の勢力拡大とシリア遠征
フラグのイル・ハン国は、成立当初から西アジアでの覇権を目指しました。モンゴル軍はフラグの指導のもと、シリアにも進出し、1259年にはダマスクスを占領することに成功しました。しかし、1260年のアインジャールートの戦いで、エジプトを本拠とするマムルーク朝に敗北を喫しました。この敗北により、イル・ハン国の拡大が一時的に停滞しましたが、それでもイラン高原を中心とした支配は強固なものとなりました。特にアフガニスタンを含む南部の地域でも影響力を維持し、モンゴル帝国の広大な領域と連携を保ちながら権力を確立しました。
イル・ハン国の行政組織と支配体制形成
イル・ハン国の成立後、フラグはその支配体制を確立するため、モンゴル帝国の行政システムを取り入れる一方で、現地の文化や伝統を融合させました。イル・ハン国の統治は、モンゴルの軍事力に支えられながらも、イランの官僚制度やイスラーム文化が重要な役割を果たしました。首都タブリーズは、政治・経済の中心地として発展し、交易路の整備が進められました。また、南部の支配者層との協力を通して、地域ごとに安定した統治が図られました。こうした行政組織の確立は、イル・ハン国が域内の多様な人々を統合し、長期間にわたり影響力を保持する基盤となりました。
モンゴル帝国分裂とイル・ハン国の独立性
モンゴル帝国は、チンギス・ハンの死後、その巨大な領土を統治するためにいくつかのウルス(王族領域)に分割されました。その中で、イル・ハン国(フラグ・ウルス)は西アジアにおける一つの重要な勢力として発展しました。しかし、14世紀に入ると、モンゴル本国の弱体化やキプチャク・ハン国、チャガタイ・ハン国などとの摩擦により、モンゴル帝国全体の分裂が進行しました。このような背景の中で、イル・ハン国は次第に独自の国家としての性格を強めていきました。独立性の確立は、特にイランにおける行政や文化の発展を促進し、イル・ハン朝時代の特徴となるイラン・イスラーム文化の繁栄へとつながりました。
イル・ハン国のイスラム化と文化的開花
ガザン・ハンとイスラム改宗の決定的影響

イル・ハン国の歴史において、ガザン・ハンのイスラーム改宗は極めて重要な転機となりました。ガザン・ハンが13世紀末にイスラームへの改宗を宣言したことで、イル・ハン国はそれまでのモンゴル的な伝統から本格的にイラン・イスラーム文化を取り入れる国へと変わっていきました。この改宗は、国内の既存のイスラーム住民との統一や和解を促進し、支配体制の安定にも寄与しました。また、ガザン・ハンの時代には、イスラーム法が行政の基本原則として採用されるなど、宗教と行政の一体化が進められました。こうした改革は、後のイル・ハン朝の統治機構形成にも大きな影響を与えています。
イラン・イスラーム文化の発展と学術
ガザン・ハン以降、イル・ハン国はイラン・イスラム文化の重要な拠点となり、この期間に文化的な開花が見られました。伝統的なペルシア文化とモンゴル・影響が融合し、多くの学術分野で発展がみられました。特に歴史学や天文学、医学などの分野では、著名な学者が活躍し、その成果が次世代へと受け継がれました。この時代に編纂された『イル・ハン朝史』や、『集史』といった歴史書は、今日でもモンゴル帝国やイル・ハン国の研究にとって欠かせない資料となっています。加えて、イル・ハン国はイランを中心にモンゴル分裂後も文化的連続性を維持し、独自のイラン・イスラーム文化の基盤を築きました。
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