煬帝

煬帝(ようだい、在位604年~618年)は、中国隋王朝の第2代皇帝であり、父・文帝の後を継いで即位しました。本名は楊広(ようこう)で、治世当初は才知と決断力に富み、強力な中央集権体制を築いて国家の統治を進めました。彼は大運河の建設を強行し、黄河と長江を結ぶ大規模な水路網を完成させました。これにより、中国の南北を経済的・軍事的に統一する基盤が整えられ、後の王朝にも大きな影響を与えることになります。

 

また、煬帝は対外遠征にも積極的で、高句麗(朝鮮半島北部)への三度にわたる遠征を行いました。しかしこれらの遠征は莫大な人員と物資を動員したため、国内の民衆に大きな負担を強いる結果となりました。加えて、煬帝の治世では宮殿の増築や豪華な巡幸なども繰り返され、こうした浪費的な政策に対する不満が広がっていきました。

 

その結果、各地で反乱が勃発し、隋王朝は急速に衰退していきます。最終的に煬帝は江都(現在の揚州市)で部下によって殺害され、隋はわずか二代で滅亡を迎えることになりました。煬帝はしばしば暴君と評される一方で、大運河の建設や交通・行政の整備といった功績もあり、その評価は一面的ではなく、功罪相半ばする存在として中国史に名を残しています。