「グレート・ゲーム」とは、19世紀から20世紀初頭にかけて、中央アジアをめぐって大英帝国とロシア帝国が繰り広げた地政学的な対立のことです。主に1830年代から1907年の英露協商までの約80年間を指しますが、その起源はもっと以前に遡ることもできます。この対立の中心はアフガニスタンを巡る双方の思惑が関係しており、両国の勢力拡大の狭間でたびたび干渉や軍事行動の舞台となりました。
背景には、両帝国の拡張主義がありました。19世紀初頭、イギリスはインドを支配し、その防衛に神経をとがらせていました。一方、ロシアは南下政策を推進し、中央アジアのハン国(ブハラ、ヒヴァ、コーカンドなど)を次々に併合しつつありました。このようなロシアの南下に対し、イギリスはインドへの脅威と見なして警戒を強め、アフガニスタンを「緩衝地帯」として自らの勢力下に置こうと画策します。
1839年からの第一次アフガン戦争では、イギリスがアフガニスタンに軍を送り、親英的な政権を樹立しようとしましたが、地元住民の反発とゲリラ的抵抗により惨敗しました。これを受けて一時的に英露の緊張は緩和されたものの、ロシアはさらに中央アジアへの進出を加速させ、1878年には第二次アフガン戦争が勃発。今度はイギリスが勝利し、アフガニスタンの外交権を掌握することに成功し保護国としました。
この時代、イギリスではヴィクトリア女王(在位1837–1901)が統治し、帝国の最盛期を迎えていました。一方のロシアでは、ニコライ1世(在位1825–1855)、アレクサンドル2世(在位1855–1881)、アレクサンドル3世(在位1881–1894)らが相次いで帝位につき、強硬な南下政策と軍事力によって中央アジアを支配下に置いていきました。
やがて1905年の日露戦争の敗北によりロシアが国力を消耗したことや、ヨーロッパ情勢の変化を受けて、1907年英露は英露協商を締結し、イラン・アフガニスタン・チベットにおける勢力範囲を明確化して対立を終結させた。これにより「グレート・ゲーム」は終焉を迎えましたが、その後のアフガニスタンは独立国家としての歩みを模索することとなりました。
このように、グレート・ゲームはアフガニスタンを舞台とした帝国主義の縮図であり、今日の中央アジアや南アジアの地政学的な背景を理解する上でも極めて重要な歴史的事象です。
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