古代史❾;グレコ・バクトリア王国後のクシャナ朝時代

グレコ・バクトリア王国の背景

グレコ・バクトリア王国は、アフガニスタンを含む広大な地域を支配したギリシャ系の王国です。この王国はアレクサンドロス大王の東方遠征の後、彼の後継者たちによって成立しました。グレコ・バクトリア王国は紀元前3世紀から2世紀にかけて栄え、その領土は現代のアフガニスタンや中央アジアの一部に広がっていました。

 

この王国は、ギリシャ文化と地元のバクトリア文化が融合した特徴を持っていました。特に繁栄した都市としてはアイ・ハヌムが知られています。グレコ・バクトリア王国の人々はギリシャ語とギリシャ文字を使用し、それがインドにおける後のクシャーナ朝の時代でも影響を及ぼしました。

 

大月氏という遊牧民族が紀元前2世紀にバクトリアに進出したことは、グレコ・バクトリア王国後のクシャナ朝の成立に直結する重要な出来事です。大月氏がバクトリアを征服した後、彼らはこの地域に定住し、最終的に新たな王朝を築きました。これがクシャーナ朝の始まりであり、アフガニスタンの歴史に新たな一章を開きました。

クシャナ朝の成立

クシャナ朝の起源と民族背景

クシャナ朝とパルティア帝国の勢力図
クシャナ朝の勢力図

クシャナ朝の起源は、中央アジアの遊牧民族である大月氏(だいげつし)にあります。紀元前2世紀頃、大月氏は中央アジアのバクトリア地方に定着し、その後次第に領土を拡大していきました。大月氏は、グレコ・バクトリア王国後の混乱期に勢力を増し、その中でクシャナ朝が成立しました。

 

クシャナ朝は、1世紀から3世紀にかけて中央アジアから北インドにかけて栄えたイラン系の王朝です。公用語はバクトリア語で、首都としてはタキシラやマトゥラー、バグラームなどがありました。クシャナ朝は多様な民族背景を持つ王朝であり、その領土内にはアフガニスタン、インド、中央アジアの広範囲が含まれていました。

クシャナ朝の初期の支配者たち

クシャナ朝の初期の支配者たちは、ラージャティラージャ(王の中の王)として知られ、クジュラ・カドフィセス、カニシカ1世、ヴァースデーヴァ、ヴァースデーヴァ2世などが統治しました。彼らはそれぞれ異なる時期において、広範な領土を統治し、クシャナ朝の繁栄を支えました。

 

特にクジュラ・カドフィセスは、クシャナ朝の基盤を築いた功績があります。彼の統治下で、クシャナ朝はバクトリアから北インドまで影響力を拡大しました。その後、カニシカ1世がクシャナ朝の最盛期を築き、多くの宗教文化や経済的発展をもたらしました。これらの支配者たちの功績により、クシャナ朝はグレコ・バクトリア王国後の重要な王朝として歴史に名を残しました。

クシャナ朝の領土拡大

クシャナ朝は1世紀から3世紀にかけて、中央アジアから北インドにかけて広大な領土を支配していました。この領土拡大は、彼らの政治的および軍事的な力によるものだけでなく、経済的な繁栄と文化の交流をもたらしました。

中央アジア地域への進出

クシャナ朝による領土拡大は、まず中央アジア地域への進出から始まりました。グレコ・バクトリア王国後、この地域は多くの民族が影響を受けることになり、特に大月氏という遊牧民族が定着したことが重要です。クシャナ朝はこの大月氏の支配下から立ち上がり、バクトリアをはじめとする重要な地域を統治することとなりました。

 

イシク湖周辺に逃れてきた月氏の残党は大月氏となり、最終的に中央アジアのソグディアナに定住しました。この大月氏の支配地域が、クシャナ朝の勢力拡大の下地となりました。クシャナ朝の支配者たちは、この地理的な優位性を生かし、中央アジア全域にわたって影響力を広げました。

北インドへの進出

クシャナ朝は中央アジアだけでなく、インド亜大陸にもその支配を広げました。特に北インドへの進出は、彼らの領土拡大戦略において非常に重要な役割を果たしました。バクトリア語を公用語とし、首都をタキシラやマトゥラー、バグラームに置くことで、多様な文化と交易の中心地として栄えました。

 

北インドへの進出では、クシャナ朝の君主たちは「ラージャティラージャ(王の中の王)」と称される統治者としての地位を確立しました。特にカニシカ1世は、宗教や文化の面でも大きな影響を与えました。彼の統治下で仏教が大きく繁栄し、サンスクリット語を用いた多くの文献が生まれました。

 

このように、クシャナ朝の領土拡大は単なる軍事的な成功だけでなく、文化的・経済的な繁栄をもたらしました。北インドへの進出は、クシャーナ朝が多様な文化・宗教・経済活動の中心地として位置づけられる大きな要素となりました。

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