目次
アフガニスタンのイスラム化
イスラムのアフガニスタン進入
アフガニスタンの中世史において、イスラムの進入は重要な出来事でした。最初のイスラム王朝カズナ朝が成立し、アフガニスタンに大きな影響を与えました。
最初のイスラム王朝の成立とガズナ朝の影響
7世紀にイスラムの勢力が広まると、アフガニスタンは徐々にイスラム化されていきました。イスラム化を推進した最初の王朝がカズナ朝です。カズナ朝の起源は、9世紀後半の中央アジアにに於けるサーマーン朝のサーマーン朝からの独立にあります。サーマーン朝はアラビア半島のアッバース朝から地方政権として独立を果たし、イラン東部からアフガニスタン西部に至るホラーサーンを中心に支配地域を広げた王朝でした。サーマーン朝はペルシア文化とイスラム信仰の発展に重要な役割を果たしましたが、徐々に弱体化していきました。
このような背景の中で、新興勢力として台頭してきたのがガズナ朝でした。カズナ朝は、まずチュルク系奴隷軍人出身のアミール(将軍もしくは地方司令官)だったアルプテギーンが西暦955年に半独立化し、西暦977年には後のアミールとなったサブクティギーンが独立を宣言し、カズナ(現在のアフガニスタンのガズニ)を首都として、最初のイスラム王朝であるガズナ朝を興し、アフガニスタンにイスラムの影響を及ぼしていきました。
カズナ朝は、マスフード(在位998年-1030年)の治世下で元宗主国であったサーマーン朝に対する攻撃を本格化しサーマーン朝を滅亡に追いやりました。さらに、1026年にヒンドゥ・シャーヒー朝を滅ぼしアフガニスタンを拠点としてインドへの侵略を行いました。彼らはインドへの侵略を通じてイスラム文化や宗教を広め、インドの一部地域をイスラム化しました。
カズナ朝の勢力範囲はアフガニスタン及びパキスタン全域、ホラサーンを含むイラン東部、トルクメニスタンやウズベキスタンの一部を含む中央アジア南部、インドの西部にまで及びました。
北インドへの侵入とその結果
マフムードの治世はガズナ朝の最も輝かしい時代として知られ、998年から1030年までガズナ朝の君主として君臨しアフガニスタン全土にわたって勢力を振るいました。彼は自身をスルタンと称し、治世の多くを領土拡大のための軍事遠征に費やしました。
マフムードは東方ではカラ・ハン朝、西方ではブワイフ朝から領土を奪取し、その支配地域を拡大しました。また、サッファール朝も服属させ、アフガニスタンを中心に大規模な影響力を持つ王朝としての地位を確立しました。
その結果、カズナ朝の勢力範囲はアフガニスタン及びパキスタン全域、ホラサーンを含むイラン東部、トルクメニスタンやウズベキスタンの一部を含む中央アジア南部、インドの西部にまで及びました。
特筆すべきは11世紀初頭から行われた北インドへの遠征です。マフムードは十数回にわたる遠征でインド北部に影響力を及ぼし、1026年にはソムナート寺院を攻撃し、偶像を破壊することで、イスラム化を進める象徴的な事件を起こしました。この事件は、ガズナ朝の軍事的および宗教的な影響力を示すものであり、インドにおけるイスラム化の契機ともなりました。しかし、彼の失政として、辺境の守備にセルジューク勢力を導入したことが挙げられます。これが後にガズナ朝の弱体化と滅亡の一因となったのです。
1030年、マフムードは病に倒れ、激務の中でその生涯を終えます。彼の死後、ガズナ朝は短命ながらもその後継者がホラサーンを失ったことから、次第に衰退の道を歩み出しました。それでも、マフムードの時代はガズナ朝が隆盛を極めた伝説の一時期であり、後世に大きな影響を与えました。
イスラム化のプロセス
アフガニスタンは中世において、イスラム教の国家として発展しました。そして、インド等の支配地域のイスラム化のプロセスには、ガズナ朝と後の王朝ゴール朝のインド侵入が大いに影響しました。
特に、ガズナ朝の支配者マフムードはイスラム教を守護し、インドの領域を征服することでイスラム化を促しました。彼はイスラム教の学者や芸術家を保護し、イスラムの教えを広めるための施設やモスクの建設を行いました。
アフガニスタンの地理的特徴もイスラーム化に関連しています。アフガニスタンは中央アジアの十字路に位置しており、東西や北南の交易路が交わる要衝となっていました。このため、異なる文化や宗教が交流し、アフガニスタンはイスラームの影響を受ける土壌となりました。
ゴール朝の勃興
サーマーン朝の影響とゴール朝の成立
サーマーン朝は873年から999年にかけて、中央アジア西南部を支配していたイラン系の王朝です。この時期、アッバース朝の権威のもとで地方太守としての役割を果たし、その影響力はアフガニスタンにも及びました。サーマーン朝は、アフガニスタンの政治的・文化的発展に大きく寄与し、その影響を受けた地域にゴール朝が成立しました。ゴール朝の起源はアフガニスタンのゴール地域にあり、この時代にはサーマーン朝の影響力が色濃く残っていました。サーマーン朝が築いた文化的・政治的基盤は、新たな王朝の誕生にとって非常に重要なものでした。
ゴール朝の拡大とガズナ朝への挑戦
ゴール朝は、サーマーン朝の崩壊後にその勢力を拡大し始めます。この時期、ガズナ朝はアフガニスタンで隆盛を誇っていましたが、徐々にその内部では混乱が生じ始めていました。ゴール朝はその隙を突く形でガズナ朝領内への侵攻を試みます。ガズナ朝との衝突は、ただの領土争いにとどまらず、アフガニスタンにおける支配地域の再編成を引き起こしました。最終的にゴール朝はガズナ朝の一部を制圧し、その影響力を広げることに成功します。ゴール朝のこの挑戦は、ガズナ朝の力が衰え始める一方で、新たな勢力としての地位を確立する大きな契機となりました。
ガズナ朝の衰退と終焉
内部混乱と外部圧力
ガズナ朝はアフガニスタンを中心に隆盛を極めましたが、その後、内部混乱と外部からの圧力が増加し、衰退の道を辿ることになりました。内部では、後継者問題や権力闘争が勃発し、これが政情不安を招きました。特に、マフムードの死後、息子マスウードの治世においては、ホラサーンの喪失が大きな痛手となりました。この時期、セルジューク勢力が辺境の守備軍として招かれたこともガズナ朝の弱体化を加速させました。
ゴール朝による征服
ゴール朝の勃興は、ガズナ朝の衰退期にあたります。ゴール朝は、サーマーン朝の影響を受けつつ台頭し、次第に支配地域を拡大しました。この勢力拡大は、既に内紛で疲弊していたガズナ朝にとって新たな脅威となりました。結果として、ゴール朝はアフガニスタン地域における軍事力を強化し、最終的にはガズナ朝を征服するに至りました。これにより、ガズナ朝はその壮大な歴史に幕を閉じ、アフガニスタンの歴史に新たな章が刻まれることになりました。
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