中世史❺;イスラム王朝ホラズム・シャー朝興亡の歴史

ホラズム・シャー朝の成立とその背景

チュルク系国家の起源

Ali Zifan, Khwarazmian dynasty (greatest extent), CC BY-SA 4.0
ホラズム・シャー朝の支配地域

 ホラズム・シャー朝の起源を知るためには、まずチュルク系民族の歴史を振り返る必要があります。ホラズム・シャー朝は、チュルク系民族が主導する国家の一つで、その成立は、セルジューク朝のホラズム総督だったアヌーシュテギーン家がセルジューク朝の衰退を機に独立し1077年に成立しました。

 

 この時代、チュルク系民族は遊牧生活から定住生活へと移行し、しだいに国家形成を進めていきました。特にホラズム地方は、9世紀から10世紀にかけて、アム川の豊かな自然環境を背景に、重要な政治的・経済的拠点として発展しました。この地域は、セルジューク朝から独立を果たした後、チュルク系のホラズム・シャー朝として独自の国家形成を開始したのです。

イスラーム化の進展と国家発展

 ホラズム・シャー朝の成立には、イスラム化の進展が大きな役割を果たしました。8世紀にはすでにイスラム教がこの地域に伝わり、宗教的・文化的影響を与えていました。このイスラム化は、ホラズム・シャー朝を形成する際の文化的基盤となり、公用語にはペルシア語や宗教に関するアラビア語が用いられました。スンニ派イスラム教は、国家の公認宗教として政治的統合にも寄与しており、その結果、ホラズム・シャー朝はアフガニスタンやさらに広範囲な地域に対する影響力を強化し、拡大していくことができたのです。このように、イスラム化はホラズム・シャー朝の国家発展とその存続期間に大きな影響を与えました。

ホラズム・シャー朝の支配領域拡大

アフガニスタンへの影響

 ゴール朝の崩壊後、ホラズム・シャー朝はその領土の多くを併合しました。アフガニスタンでは、バルフ、ヘラート及びガズニなどの、アフガニスタン北部、西部と中部の一部がこの王朝の支配下に入りました。ホラズム・シャー朝の有力な君主であるアラーウッディーン・ムハンマド(Ala ad-Din Muhammad)がこの地域を統治しましたが、彼の治世末期にはモンゴル帝国による脅威が迫っていました。ホラズム・シャー朝はゴール朝が崩壊した1215年以降モンゴル侵攻の1220年頃まで実質的にその後継者として振る舞いました。

ヘラートを巡る紛争とアフガニスタンへの影響

 ホラズム・シャー朝とアフガニスタンとの関係性は、特に戦略的重要性を持つ都市ヘラートを巡る紛争によって浮き彫りにされます。ヘラートは、古くから交通と交易の要衝として栄えており、ホラズム・シャー朝にとっても大変重要な都市でした。この都市を巡ってアフガニスタンを支配する勢力とホラズム・シャー朝はしばしば衝突しました。

 

 このような紛争は、アフガニスタンの政治的状況に大きな影響を及ぼし、地域の安定性を脅かしました。また、ホラズム・シャー朝の興亡に伴い、ヘラートは幾度もその支配を争われる舞台となりました。結果的に、アフガニスタン地域は他の強力な勢力による支配と影響を受けながらも独自の文化と政治状況を形成していくこととなりました。

中央アジアと西アジアへの進出

 ホラズム・シャー朝はその支配領域をアフガニスタンに限定せず、さらに中央アジアおよび西アジアへも積極的に進出していきました。12世紀末から13世紀初頭にかけて、ホラズム・シャー朝はカラ=キタイからサマルカンドやブハラを奪取し、これらの中心地を含む広大な中央アジアをその影響下に置きました。また、ホラズム・シャー朝は西アジアにおいてもその勢力を広げ、イランへの進出を果たしました。この広大な支配地域の拡大は、ホラズム・シャー朝の軍事的成功と相まって、彼らの政治的な影響力を域内外において増大させました。しかし、この拡大が一方で、内外の緊張を生み出し、のちにモンゴル帝国による侵攻の要因の一つともなったのです。こうした拡大の歴史は、ホラズム・シャー朝の興亡における一つの大きな転機を形成しました。

ゴール朝後のその他のアフガニスタンの主な勢力

ローカルな領主や部族勢力

 ホラズム・シャーの支配下のアフガニスタン北部や西部以外は、支配者たちは地方ごとに分かれ、特に以下の政権や勢力が主に影響を及ぼしました。この期間は、モンゴルの侵攻(1219年頃)までの短い時期ですが、政治的に混乱していました。

 

 ゴール朝の崩壊後、一部の地域では中央集権的な統治が弱まり、多くの地方領主(地方のアミールや族長)が権力を握りました。これらの領主は、ホラズム・シャー朝やその後のモンゴル勢力に対して時に独立し、時に服従する形で統治を行いました。特にアフガニスタン東部を中心にカンダハールやバーミヤーンなど、山岳地帯では独立した地方政権が存在しました。

デリー・スルターン朝 (Delhi Sultanate)

Base map: File:India location map.svg by User:Uwe Dedering Derivative map: Utcursch (Utkarsh Atmaram), Delhi Sultanate under Jalaluddin Khalji - based on A Historical Atlas of South Asia, Farbe von keine Hoffnung, CC BY-SA 4.0
1290年頃のデリー・スルタン朝の支配地域

 ゴール朝の将軍だったクトゥブッディーン・アイバクが、ゴール朝の滅亡後にインド北部で独立し、1206年にデリー・スルターン朝(奴隷王朝、Mamluk Dynasty)を設立しました。彼はゴール朝のインド征服の遺産を継承しました。デリー・スルターン朝は1206年に成立し、最初の王朝である奴隷王朝(Mamluk Dynasty)は1290年まで続きました。その後、デリー・スルターン朝の名の下で、支配者はハルジー朝からロディー朝まで5つの王朝が引継ぎ1526年ムガール帝国により滅ぼされました。

 

 支配地域は、インド北部からアフガニスタン南部のカズニ地域で、ゴール朝の遺産を継承し、インドにおけるイスラーム政権を確立しました。

イスラム神秘主義の影響

この時期、スーフィズム(イスラム神秘主義)がアフガニスタン地域で広まり、スーフィー教団が地方社会に影響力を持つようになりました。これにより、宗教的指導者が政治的にも影響を及ぼす例が見られました。

 

 このように、ゴール朝の滅亡後のアフガニスタンは、ホラズム・シャー朝の支配が拡大する一方で、地方勢力が活発化し、最終的にはモンゴル帝国の到来によって劇的な変化を迎えることになります。

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