古代から続く日本とアフガニスタンの深い歴史

古代から続く交流と文化のつながり

アフガニスタンと日本を結ぶシルクロード

 アフガニスタンは東西文化が交差するシルクロードの要所として、古代から重要な役割を果たしてきました。この交易路は、物品や技術だけでなく、思想や宗教の伝播にも大きく寄与しました。日本との関係も、このシルクロードを通じて深まったと考えられています。たとえば、ペルシャやインド文明の影響を受けた品々がアフガニスタンを経由して日本に伝えられた記録があります。このような歴史的背景は、日本とアフガニスタンの出会いをより一層興味深いものにしています。

飛鳥時代に遡る物品の渡来

 

Z Tanuki., Japan- Nara, Todaiji Shosoin 2011, CC BY 3.0
正倉院全景

飛鳥時代には、アフガニスタンからの文物や技術が日本に渡来していた痕跡があります。具体的には、装飾品や技術的要素においてアフガニスタン周辺地域で生産されたものと類似の特徴が見られます。例えば、正倉院に保管されている紺玉の飾りはアフガニスタンを原産地とするラピスラズリの原石で、シルクロードを通って日本にたどり着いたものです。その他、瑠璃杯や琥珀などが飛鳥時代から奈良時代にかけて日本に伝わったようです。また、バクトリアやガンダーラを含むアフガニスタン地域から伝えられたといわれる物が、奈良県の藤ノ木古墳から金銅製の馬具や装飾品・金の指輪が、大阪府の長持山古墳から水晶製の玉・ガラス製品が副葬品としてそれぞれ発見されています。このような物品や技術の移入は、日本とアフガニスタンの文化的交流の深さを象徴するものといえるでしょう。

仏教文化の伝播とその影響

 仏教文化もまた、シルクロードを通じてアフガニスタン地域を経て日本に伝播した重要な要素です。アフガニスタンにおける仏教美術の特徴が日本の仏教美術にも影響を与えた可能性が指摘されており、その繋がりは飛鳥時代の仏像や絵画にも見ることができます。

 さらに、中国唐代の僧玄奘三蔵法師のインドの旅を記録した大唐西域記が、743年(天平15年)唐からの留学僧普照が日本に持ち帰ったという説があります。一方、754年(天平勝宝6年)に鑑真が来日した際にも、仏教経典とともに『大唐西域記』をもたらした可能性が指摘されています。この大唐西域記を通じて、アフガニスタンのバーミヤンの大仏の存在が一部の者に限られるものの知られることになり、アフガニスタンの文化の一面を知ることになりました。

 

近代以降の外交と経済的関係

近代以降のアフガニスタンとの接点

江戸時代後期の地理学者箕作省吾よって1845年に書かれた名著「坤輿図識(こんよずしき)」によってアフガニスタンが言及されるまでアフガニスタンが紹介されることはありませんでした。時代が明治時代に移ると、新聞でアフガニスタンが取り上げられ、大阪朝日新聞がバーミヤンの大仏を絵入りで紹介したようです。

アユブ・ハーンの訪日とその意義

 アユブ・ハーンはアフガニスタンの近代化を推進した重要な人物であり、日本とアフガニスタンの関係においても特筆すべき存在です。1907年、アユブ・ハーンの訪日により「日本とアフガニスタンの出会い」は新たな局面を迎えました。当時、急速に近代国家として発展していた日本はアフガニスタンにとって模範的な国であり、アユブ・ハーンは日本の技術革新や政治体制、教育制度などを学び、自国の近代化に役立てるためのヒントを得ようとしました。この訪問は単なる外交上のイベントに留まらず、日本・アフガニスタン関係史の中でも、近代の両国関係深化の起点となりました。

 

アマーヌッラー・ハーン国王

1922年インド駐在武官だった谷寿夫が日本人としてアフガニスタンのカブールを訪れアマーヌッラー・ハーンに謁見しています。その際、アマーヌッラー・ハーンは「日本と国交を開きたいが、日本はあまり関心がないようだ。」と伝えられたと言われています。その後、アマーヌッラー・ハーンの次のナーディル・ハーン政権の1931年に条約を批准し、まずアフガニスタンが1933年日本に公使館を開き、日本は遅れること1934年にアフガニスタンに公使館を開きました。

 

日本とアフガニスタン修好条約の締結

日本とアフガニスタンの修好条約は、両国関係を大きく発展させた歴史的瞬間でした。この条約は近代以降の両国間の具体的な交流を支える枠組みの一つとなり、以降の外交や経済関係に強い影響を与えました。当時のアフガニスタンは、独立を確立する過程で多くの国々と条約を結ぶ中、日本との協力関係を重視する姿勢を見せました。一方で日本もアフガニスタンをシルクロードを含むアジア全域の重要な一部として認識しており、経済的、文化的なパートナーシップを確立することでアジアの平和と発展を目指していました。この修好条約は、古代からの文化的つながりを背景にした両国の新たな時代へのステップを象徴しています。

産業技術や文化交流の発展

近代以降、日本とアフガニスタンの産業技術と文化交流は徐々に深化していきました。日本は機械工業や農業技術の分野でアフガニスタンに技術提供を行い、農業生産性向上やインフラ整備に貢献しました。また、双方の技術者や学生が学び合う機会を設け、それぞれの国の発展に寄与しました。一方で、アフガニスタンの伝統的な工芸や文化も日本に紹介され、特に手織りの絨毯や宝石加工技術は日本市場でも評価を受けました。このような相互の関係を通じて、日本とアフガニスタンのつながりは経済的だけでなく、文化的な面でも双方に影響を与え続けています。

第二次世界大戦とアフガニスタンの対応

 アフガニスタンは、第二次世界大戦においても中立政策を貫き、米・英国からドイツ、イタリア人と同じく日本人の追放を求められても日本に対して敵対的行動をとりませんでした。戦後も日本の主権が認められず1952年のサンフランシスコ条約発効まで多くの国と国交が断絶した中でもアフガニスタンは国交を維持し、在留邦人に対しても友好的対応をとったと言われています。敗戦に伴う公使館員の引き揚げに当たってはパキスタン国境まで軍隊が護衛したのです。

 

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