目次
サファヴィー朝の成立とその基盤
サファヴィー朝建国までのイスマーイール1世の状況

イスマイーリ一世(在位1501-1524)は、サファヴィー教団の教主の家系に生まれました。サファヴィー教団はもともとスンナ派のスーフィー教団でしたが、15世紀にはシーア派の一派である十二イマーム派へと転向しました。イスマイーリ一世の祖父・父の時代には、アナトリアやアゼルバイジャンを中心に勢力を広げ、多くのトルコ系遊牧民の支持を得ました。これらの支持者は「キジルバッシュ(赤頭)」と呼ばれ、赤いターバンを身に着けていました。彼らはサファヴィー教団の軍事力の中核を担い、イスマイーリ一世の勢力拡大に大きく貢献しました。
イスマーイール1世は幼少期を追放先で過ごしましたが、1499年にアナトリアのキジルバシュの支援を得てアゼルバイジャンに進軍。1501年、シルヴァーン地方を攻略し、続いてサファヴィー朝の首都となるタブリーズを占領しました。ここで彼はシーア派を国教とし、自らをシャー(王)と宣言しサファヴィー朝を建国しました。以後、彼はイラン全土へ支配を拡大し、オスマン帝国やウズベク族と対峙しながらサファヴィー朝の基盤を確立しました。
イスマーイール1世と建国の背景

サファヴィー朝は、1501年、イスマーイール1世による建国を契機としてイラン高原に誕生しました。イスマーイール1世は、シーア派の宗教指導者として影響力を高めながら軍事力を背景に政治的な野心を抱き、ついにはタブリーズを首都に定めてサファヴィー朝を成立させました。サファヴィー朝の建国の経緯には、当時のイラン地域がティムール朝の衰退後、多くの小王朝や部族勢力が割拠する分裂状態にあったことが大きく関わっています。イスマーイール1世はその混乱を巧みに利用し、宗教的なカリスマ性を武器に短期間で広範な支持を獲得しました。
シーア派十二イマーム派の採用と宗教政策
サファヴィー朝のもう一つの重要な特徴は、シーア派十二イマーム派を国教として採用した点です。イスマーイール1世は、支配地域の統合を目指して宗教的アイデンティティを強化し、スンナ派が主流だったイラン地域でシーア派を急速に普及させました。この宗教政策により、サファヴィー朝は国内の統一だけでなくオスマン帝国を始めとするスンナ派主体の周辺国家との差別化を図ることができました。一方、この動きは宗教的対立を生む要因にもなり、サファヴィー朝と他のイスラム国家、特にオスマン帝国との関係を複雑にしました。
サファヴィー朝とオスマン帝国の抗争

サファヴィー朝とオスマン帝国の抗争は、両王朝間の宗教的・地政学的な対立の象徴的な出来事でした。オスマン帝国はスンナ派の大国として広大な支配地域を誇り、それに対抗する形でサファヴィー朝がシーア派国家として姿を現したことで、両者の間に宗教的緊張が生じました。具体的には、1514年のチャルディラーンの戦いにおいて、イスマーイール1世率いるサファヴィー軍がオスマン帝国のスルタン・セリム1世に敗北しました。この戦いは、サファヴィー朝のイラン高原支配を揺るがしたものの、その後も両国の抗争は断続的に続き、長期間にわたり中東地域の政治的な枠組みに影響を及ぼしました。
タブリーズからの支配体制
サファヴィー朝の初期の支配体制は、タブリーズを首都として中央集権的な管理を目指して構築されました。タブリーズは当時、地理的にも政治的にも戦略的な重要性を持つ都市であり、交易路の要衝としても機能していました。イスマーイール1世はこの都市を拠点にシーア派の信仰を強化するとともに、軍事力をもって支配域の拡大を図りました。
しかし、北西のオスマン帝国や中央アジアの他国勢力との対立が激化する中で、タブリーズの地理的脆弱性も露呈し、一時的に首都を移さざるを得ない場合もありました。それでも、タブリーズはサファヴィー朝の成立期における象徴的な都市であり、その宗教的・経済的重要性は長く保持されました。
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