中世史❾-4;ティムール朝滅亡後のシーア派イスラム教国サファヴィー朝による支配

イラン高原とホラーサーンにおけるサファヴィー朝の支配

ホラーサーン地域の戦略的価値 

Astrotechnics, Safavid armour 1, CC BY-SA 4.0
サファヴィー朝軍の鎧

 イラン東部からアフガニスタンのヘラートを含むアフガニスタン西部一帯のホラーサーン地域は、サファヴィー朝の支配において極めて重要な戦略的拠点と位置付けられていました。この地域は、古代よりイラン高原と中央アジアを繋ぐ交通の要衝であり、商業と軍事の重要な地点となっていました。特に、ホラーサーンを中心とした交易路は、シルクロードの一部を形成し、多様な文化や経済的恩恵をもたらしました。イスマーイール1世によるサファヴィー朝の建国以降、この地域の掌握は、東方の勢力と対抗するうえで必要不可欠でした。

 

 さらに、ホラーサーンは中央アジアから流入する遊牧民勢力による侵略を防ぐ防壁のような役割も果たしていました。こうした戦略的価値により、サファヴィー朝はこの地域の治安維持と統治に重点を置き、強い軍事的および行政的支配体制を構築しました。

マシュハドの宗教的重要性とその管理

 ホラーサーンに位置するマシュハドは、シーア派イスラム教において宗教的に非常に重要な都市です。この地は、第8代イマームであるイマーム・レザーの聖廟があることで知られ、シーア派の巡礼地としての役割を果たしました。サファヴィー朝はシーア派十二イマーム派を国家の宗教として採用していたため、マシュハドの統治と発展に特に力を入れました。

 

 サファヴィー朝は、宗教政策の一環として、マシュハドをシーア派信仰の中心地の一つとして位置づけ、ここを巡礼に訪れる信徒を保護・奨励しました。経済的にもマシュハドは繁栄し、多くの巡礼者がもたらす資金が都市の発展を支えました。また、宗教的権威を背景に、マシュハドの管理を通じてホラーサーン全域の安定につなげることができたのです。

ホラーサーン地域を巡る中央アジア勢力との接触

 ホラーサーン地域は、イラン高原だけでなく中央アジアの勢力とも深く関わりを持つ地理的特性を有していました。サファヴィー朝の時代には、この地域を拠点に中央アジア勢力との抗争や交渉が頻繁に行われました。特に、サファヴィー朝はオスマン帝国やウズベク族といった外部勢力との対立の中で、この地域を守るために多大な労力を注ぎました。

 

 また、中央アジアからはシャイバニー朝のようなイスラム系勢力が頻繁に進出を図り、ホラーサーン地域での影響力拡大を目指しました。一方で、サファヴィー朝は軍事的防衛のみならず、交易ネットワークを通じて中央アジアとの経済的なつながりを築き、地域の安定化と繁栄を達成しました。このような接触は、サファヴィー朝の勢力圏を広げるだけでなく、文化的交流の促進にも寄与しました。

サファヴィー朝とアフガニスタン地域の関係

アフガニスタン地域の歴史的背景と勢力分布

 アフガニスタン地域は、古くから東西交易の要衝として知られ、「文明の十字路」とも称される重要な地理的位置を占めていました。この地域はヒンドゥークシュ山脈やパミール高原を抱えた自然環境と、多民族が交錯する複雑な社会構造を持っています。そのためアケメネス朝やクシャン朝、モンゴル帝国などの支配の影響を受けつつも、常に独自の勢力分布を有していました。

 

 サファヴィー朝が台頭した16世紀、この地域には、部族を中心とした分権的な社会構造が主流でしたが、他の大勢力の侵攻や支配も頻繁に行われていました。このような歴史的背景の中で、サファヴィー朝がアフガニスタンに接近することとなりました。

シャイバーニー朝やムガル帝国との交錯

 サファヴィー朝のアフガニスタン支配の経緯には、シャイバーニー朝やムガール帝国といった周辺の強力な勢力との交錯が不可避でした。サファヴィー朝はイスマーイール1世の下で建国され、シーア派を国教としたことによりこの地域での宗教的対立を引き起こしました。

 

 一方、スンナ派を支持するシャイバーニー朝やムガル帝国もこの地域に影響力を持ち、ホラーサーンやカンダハルといった戦略的要地を巡る争奪が繰り返されました。特にカンダハルは、インド亜大陸と中央アジアを結ぶ要衝として、その支配権が各勢力にとって重要な課題となりました。このように、経済的・軍事的な重要性を背景に、アフガニスタン地域でのサファヴィー朝と他勢力との交錯は、激しい競争を生む結果となりました。

スンナ派との対立とその影響

 サファヴィー朝の建国以来、イラン地域をシーア派十二イマーム派の中心地として確立するための政策は、スンナ派地域との衝突を不可避にしました。アフガニスタン地域にもスンナ派を信仰する部族や政治勢力が多く存在していたため、サファヴィー朝の支配拡大には宗教的対立が伴いました。この対立は単なる宗教問題にとどまらず、政治的対立や軍事的緊張にも直結しました。特に、アフガニスタンの部族社会はスンナ派信仰を持つことでムガール帝国やシャイバーニー朝と同盟関係を築くことが多く、サファヴィー朝の統治にとっては非常に大きな障害となりました。この宗教的対立は、やがてサファヴィー朝がアフガニスタンの一部で長期的な統治を難しくする原因の一つとなりました。

経済的・文化的交流の痕跡

 サファヴィー朝の支配と衝突が繰り返される中、アフガニスタンとの間における経済的・文化的交流もまた重要な側面を持っていました。この地域は、中央アジア、イラン、そしてインド亜大陸を結ぶ交易路として機能し、サファヴィー朝の経済基盤にも一定の寄与をしていました。カンダハルやヘラートといった都市では、サファヴィー朝の影響下で建築や芸術、宗教施設の整備が進み、シーア派文化がある程度浸透する成果も見られました。

 

 同時に、アフガニスタン特有の遊牧文化や部族文化もサファヴィー朝に影響を及ぼし、イランとアフガニスタンの間で文化的共有が見られたことは注目に値します。このような交流が両地域のアイデンティティ形成にも一定の影響を与えたと言えるでしょう。

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