現代史❸;ソ連崩壊の遠因となった泥沼のソ連・アフガニスタン戦争

ソ連のアフガニスタン侵攻の背景

ソ連の侵攻とその目的 

ソ連軍のアフガニスタン侵攻経路

 1979年12月、ソ連はアフガニスタンに「援助」の名目で突然軍事侵攻を開始し、「ソ連・アフガン戦争」として知られる紛争が勃発しました。この侵攻の目的は、一部では社会主義体制の擁護および拡大と考えられています。1978年のサウル革命(「4月革命」ともいう)によってアフガニスタンで成立したアフガニスタン人民民主党政権がソ連と密接な関係を持つ中、国内で反政府勢力による抗議や武力闘争が激化し、政権が不安定化しました。これを受けて、ソ連は友好国家への影響力維持を理由に軍事介入に踏み切ったのです。ただし、国際的にはこれはソ連の拡張主義的行動とみなされ、冷戦下での緊張をさらに加速させました。

アフガニスタンの地政学的重要性

 アフガニスタンは古来より「帝国の墓場」や「文明の十字路」として知られる地域であり、その戦略的な地政学的価値は極めて高いとされています。中央アジア、南アジア、中東を結ぶ交差点に位置するこの国は、隣接するパキスタンやイラン、中国にも影響を与える場所にあります。冷戦下においては、ソ連がアフガニスタンを支配下に置くことで、南アジアへの影響力を拡大する狙いがあると考えられました。また、アフガニスタン国内の紛争が拡大する中で、アメリカやサウジアラビアなども地域のパワーバランスを意識し、この地に積極的に介入しました。

ムジャヒディンの誕生と役割 

erwinlux、クナール州シガル・タルナ駐屯地への迫撃砲攻撃、87、CC BY-SA 3.0
クナール州ののムジャヒディン

ソ連の侵攻が始まる以前から、アフガニスタンでは後にムジャヒディンと呼ばれる反政府武装勢力が活動していました。ムジャヒディンは、イスラムの教義に基づき聖戦(ジハード)を戦う戦士という意味を持ち、1978年のクーデター後に共産主義政権に抗議する反発運動の中で形成されていきました。彼らは主に部族ごとに分かれて活動しながらも、ソ連軍に対する激しいゲリラ戦を展開しました。ムジャヒディンは、アメリカやパキスタン、サウジアラビアからの武器や資金の提供を受けることで勢力を強化し、アフガニスタン内外で重要な存在となりました。彼らは最終的に、ソ連撤退後のアフガニスタン国内における主な勢力の一つとして台頭することとなります。

冷戦下の国際関係への影響

 ソ連のアフガニスタン侵攻は、冷戦下の東西対立をさらに複雑化させました。特にアメリカとソ連の間では、「代理戦争」の様相を呈することとなりました。アメリカは「トルーマン・ドクトリン」の一環として、共産主義の拡大を阻止するため、ムジャヒディンに対して武器供与や資金支援を行いました。この支援は、CIAを通じた秘密工作によるものが多く、ムジャヒディンを強化する一方で、アフガニスタン紛争を長期化させる要因ともなりました。また、中東や南アジア諸国もそれぞれの利害関係に基づいてアフガニスタン問題に関与し、地域全体の不安定化を加速させました。結果的に、この紛争は冷戦末期の国際政治において重大な影響を与えたのです。

ムジャヒディンの戦術と戦略

ゲリラ戦術の採用と効果

 ムジャヒディンは、地形を巧みに利用したゲリラ戦術を用いることで、ソ連軍に対抗しました。アフガニスタンは険しい山岳地帯が多く、ムジャヒディンはこれを最大限に活用しました。彼らは局地戦や奇襲攻撃を得意としており、小規模な部隊で素早く攻撃し、その後すぐに撤退する戦術を採用しました。このような戦い方は、ソ連軍のような重装備で大規模な軍隊にとって非常に厄介なものであり、兵站の維持や部隊の移動に多大な困難をもたらしました。このゲリラ戦術の効果により、ムジャヒディンはソ連軍に大きな損害を与え、長期的な消耗戦に引きずり込むことに成功しました。

西側諸国のムジャヒディンに対する武器支援とパキスタンの関与

 ソ連のアフガニスタン侵攻は冷戦下の米ソ対立を直接的に反映する事態となり、アメリカを中心とした西側諸国はムジャヒディンへの支援を強化しました。その一例が、アメリカの中央情報局(CIA)が主導した「サイクロン作戦」です。この極秘作戦の下、アメリカはムジャヒディンに対して多額の資金を提供するとともに、地対空ミサイル「スティンガー」やその他の武器を供給しました。

 

 また、パキスタンも同作戦で重要な役割を果たしました。同国の軍事組織であるISI(インターサービス・インテリジェンス)は、ムジャヒディンへの物資提供を管理する拠点として機能し、多くの義勇兵がここを経由してアフガニスタンに送り込まれました。これによりムジャヒディンは、ソ連の制空権に対抗する力を持ち、戦況を動かすことに成功しました。

 

 また、サウジアラビア等の中東イスラム国家の中にもムジャヒディンに資金や兵器の提供を行い、反ソ連勢力の後ろ盾となりました。しかし、これらの支援は後のアフガニスタン内戦の要因の一つともなり、武器が国中に拡散され、不安定な状況を招くことにつながりました。

部族間の連携と対立

 ムジャヒディンはアフガニスタン国内の複数の部族やグループから成り立っていました。それぞれのグループには独自の指導者や目標があり、戦争中には連携を保つことが求められました。特にアフマド・シャー・マスードなどの指導者は、異なる部族間の協力を促進し、統一勢力としてソ連軍と戦おうとしました。しかし、全ての部族が完全に協力関係を築けたわけではありませんでした。むしろ、作戦や資源の配分を巡る対立や内部抗争が頻繁に発生し、それがムジャヒディンの統一した行動を妨げる一因となりました。この内部の連携と対立は、ソ連撤退後のアフガニスタン内戦に直結する複雑な要素ともなりました。

戦場での主な戦闘と転換点 

ハミド・モハマディ、アフマド・マスード、CC BY-SA 4.0
北部同盟のアフマド・シャー・マスード司令官

ソ連・アフガン戦争の中で、いくつかの重要な戦闘が戦局を大きく変える転換点となりました。その中でも特に有名なのが、パンジシール渓谷での戦いです。この地域はムジャヒディンの拠点の一つであり、アフマド・シャー・マスードが指揮を執っていました。ソ連軍はパンジシール渓谷を複数回攻撃しましたが、地形とムジャヒディンの巧妙な戦術により、決定的な勝利を収めることができませんでした。また、スティンガーミサイルが導入された後、ソ連軍のヘリコプターと航空機が相次いで撃墜され、制空権の喪失が戦局に大きな影響を与えました。これらの戦闘は、ソ連が戦争を継続する上でのコストと損害が限界に達しつつあることを示し、最終的な撤退の要因の一つとなったのです。

 

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