目次
ティムール朝の崩壊とその後のアフガニスタン
アフガニスタンの新たな秩序の形成
ティムール朝(ティムール帝国)の衰退後、アフガニスタンを含む中央アジアや西・アジアアにおける統一的な支配者が確立されるまでの間には、複数の地方王朝や傍流王朝が存在しました。この時代は、アフガニスタンが分裂と混乱に陥った時期とされます。以下に、その背景と主要な勢力を説明します。
ティムール朝後の支配勢力
アフガニスタン北部の支配者ウズベク・シャイバーニー朝
ティムール朝が15世紀後半に衰退すると、その影響力は徐々に弱まりました。この状況の中で勢力を拡大したのがウズベク人によるシャイバーニー朝でした。ウズベク・シャイバーニー朝は、中央アジアからヒンドゥークシュ以北のアフガニスタン北部にかけての広大な地域を支配下に置きました。彼らはティムール朝が築いた文化的遺産を受け継ぎつつも、独自の政治的・軍事的統治体制を適用しました。特にアフガニスタン北部の地で、シャイバーニー朝はその支配を固め、交易路の管理を通じて地域の経済や政治に大きな影響を与えました。
シャイバーニー朝はウズベク朝とも呼ばれますが、正確にはシャイバーニー朝の後継王朝を含めたウズベク人が建国・支配したウズベク朝の一部です。
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アフガニスタン東部の支配者バーブルの登場
ティムールの血を引く人物であるバーブルは、シャイバーニー朝との争いを避けながらも、アフガニスタン南部と西部を経由して力を蓄えました。最終的にはインドに侵入しムガール帝国を創始し、インド北部を統治することになります。バーブルにとってアフガニスタンは、彼の軍事遠征や領土拡大の拠点として重要でした。特にカーブルは彼の本拠地であり、その後のムガール帝国の成立と成長に大きな役割を果たしました。
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アフガニスタン南部・西部の支配者サファヴィー朝
ティムール朝の滅亡後、南部や西部の地域では、部族や地方領主が地元の利益を中心に自立した統治を行い、中央集権的な統治はほとんど存在しませんでした。この混乱の中で、武力衝突が頻発し、交易路の安全が脅かされました。この分裂状況の中でサファヴィー朝やムガール帝国の介入を誘発し、その戦略的な地理的位置から、サファヴィー朝やムガール帝国など新たな勢力の影響下に置かれることが増えました。
サファヴィー朝はイランを中心としたシーア派国家であり、アフガニスタン西部にも一時的に支配を及ぼしました。サファヴィー朝は1501年にイスマーイール1世によって建国され、現在のイランを中心とした広大な領域を統治しました。その支配はシーア派を国教としている点が特徴的で、宗教を国家統治の基盤とする試みを行いました。一方で、東部や南部ではスンナ派のムガール帝国が影響力を強め、地域文化や経済を支配するようになりました。こうした新たな勢力が相次ぎ登場することで、アフガニスタンは再び文明の交差点としての重要性を取り戻しつつも、分裂に起因する不安定性を抱える状況が続きました。
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